目標を目指して走っているのです。

静まりの時 ピリピ3・12~16
日付:2023年10月11日(水)

12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
15 ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。
16 ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。
(ピリピ3・12~16)

 イエスさまを信じるということは、イエスさまを捕えるということではなく、イエスさまに捕らえられた、イエスさまに捕らえていただいた、ということです。イエスさまに捕えていただいているので、安心して「ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っている」のです。それがキリストを信じる者の新しい生き方です。
 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」(12)「私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません」(14)。繰り返して自分は完全ではない、未完成である、ということを告白しています。謙遜をしているのではありません。信仰の健やかさが語られているのです。
 人間は生涯未完成です。それが人間として健やかに生きる道です。真摯に求めれば求めるほど、自分が如何に未完成かを知ることになるのです。「ですから、大人である人はみな、このように考えましょう」。大人と訳されている言葉は、12節に出てくる「完成」と同じ言葉です。成熟する、とか完成する、という意味の言葉です。日本語で、「大人」というと、大人しい、という言葉にもあるように、甘いも酸っぱいも熟知し分別をわきまえた立派な人間を想像しますが、そういうことではなく、信仰の完全とは、自分が未完成であることを知っていることである、ということでしょう。

「もしも、あなたがたが何か違う考え方をしているなら、そのことも神があなたがたに明らかにしてくださいます。ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」(15,16)

 パウロとは違う考え方、すなわち、自分は完全だ、完璧だ、と考える人に、パウロは何が何でも私の考え方をしなさい、とはいいません。必要ならば神さまが明らかにしてくださる、今明らかにされていないということならば、それも神さまの御心でしょう、私たちはそれぞれ自分が到達しているところに基づいて進んでいきましょうね、と語ります。

 イエスさまが捕えていてくださるので、安心して捕えようとして目標に向かって走っているのが信仰生活です。その走りがひたむきなものであるならば、他の走者のことなど必要以上に注視できるはずがありません。だいたい自分のことで精いっぱいであるはずなのです。隣人のために祈ることは大切なことです。しかし私たちの問題は隣人のためへの祈りを後回しにして必要以上に行動してしまう、ということでしょう。行動することも祈りの一つである、と言えばそうかもしれません。しかし私たちは、全能なるまことの神さまに祈っています。すべてのことをご存じで、十字架の愛と復活の力をもって共に歩もうとしてくださるお方が聞いていてくださいます。ですから祈るということは、神さまへの信頼であり、神さまに委ねることであるはずです。
 救急車に乗せていただいたことがあります。私ために救急車を走らせ、適切な病院を選択し、その間も、私への様々な私への対応をしてくださる救急隊員の姿は、忘れることができません。もしそんな救急隊員が、途中で別の救急要請に応じられたとすればどうでしょう。もちろんそういうことは一切ありませんでしたのでよかったです。私たちは、まず自分の命を生きるように神さまに召されています。神さまは自分を愛するように隣人を愛せと言われました。自分を愛することを知らない時、私たちは隣人を愛することが出来ないのです。自分の命をしっかりと生きるために目標に向かってひたむきに走っている。それが健やかな信仰生活なのです。
 イエスさまに捕えていただきました。その安心の中に、きょうも自分のペースでひたむきに主を求めて生きたいと思います。