うなじを固くする者であるかをよく知っている

静まりの時 申命記31・24~29
日付:2023年09月14日(木)

私は、あなたがどれほど逆らう者であるか、うなじを固くする者であるかをよく知っている。見よ。私があなたがたとともに生きている今でさえ、あなたがたは主に逆らってきた。私の死後は、なおさらであろう。(27)

 神さまは、120歳になったモーセに、間もなく命が尽きることを悟らせ、イスラエルの民に「ことば」を残すようにと命じられました。モーセはそれに従い「みおしえのことば」を書き残し、契約の箱のそばに置くようにと、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じました。その時語られた言葉が今朝の個所です。
 モーセは、イスラエルの民が「どれほど逆らう者」「うなじを固くする者」であるかをよく知っていると語りました。モーセがともに生きている今でさえそうなのだから、モーセの死後はなおさらであろう、と。常に主に逆らおうとするイスラエルを導かなければならなかったモーセの人生は大変だったであろうと想像します。

 主に逆らうこと。それはうなじを固くすること。神さまが示される進むべき方向に逆らうこと。こちらに行けと鼻面を向けるのに、うなじを固くして、別の方向に行こうとしてしまうこと。当然その先には幸せはありません。しかし人間はいつも自分勝手な道に行こうとするのです。それが聖書の語る罪です。
 なぜ人間は主に逆らい、うなじを固くしてしまうのか。

 おそらく主に逆らい、うなじを固くしている時、というのは、それが悪であるという自覚がないのではないか。むしろ良いことをしているという自負すらあるのではないか。
 人間は自分の歩む道が善であるのか、悪であるのか、そもそもそういう判断力自体、完全なものを持っているわけではありません。にもかかわらず、どこか自分の判断力は完全である、完璧である、と思い込んでいる、あるいは思い込もうとしている。そこに重大な問題があるように思います。

 聖書を読んで、そこに書かれていることに従おう、逆らわないで、うなじを固くしないで従っていこうとするのは、それが正しいことである、と自分が判断したからそうするのか。それとも、自分の判断を越えて、ただそのように聖書に書いてあるから、神さまがそう言われるから従おうとするのか。私たちは、圧倒的に自分が正しいと判断したから従うということになっているのではないか。しかし自分の判断力が正しいとどうして言うことができるのか。むしろ自分は罪人であると告白しているではないか。にも関わらず自分を正しい、自分を義としているということは一体どういうことなのだろうか。

 かといって、言われることに無批判に従うことが、聖書の心なのか。アフリカでカルト集団が大量の餓死者を出したことがニュースになっていました。カルトのように、人間がまるでロボットのように扱われることになるのではないか。そんな疑問も生まれます。

 聖書自体が権力ではなく権威をもって書かれているということは、大切なことでしょう。権力は、受け手に自由を与えませんが、権威は受け手の自由な判断の中で選び取ることを前提としています。権威をもって書かれた聖書の言葉を、受け取るためには、イエスさまへの信仰、信頼が必要なのです。それが聖書の心だと思います。

 自由な心をもって、自らの判断力を大切にしつつ、しかしそこにも間違いが潜んでいることを自覚し、謙遜に生きることができればよいのではないかと思います。