静まりの時 使徒16・1~5
日付:2023年06月27日(火)
1 それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。
2 彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった。
3 パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。
4 彼らは町々を巡り、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を、守るべきものとして人々に伝えた。
5 こうして諸教会は信仰を強められ、人数も日ごとに増えていった。
(使徒16・1~5)
「そこにテモテという弟子がいた」。
今日教会は人材不足のなかにあります。私たちの団体も例外ではありません。歴史の長い団体はより深刻で、人材の確保は喫緊の課題です。召し出しの日、とか、献身者のための祈りとか、さまざまに取り組みがなされていますが、なかなか前進しないのが現状です。人材不足についてある団体の先生は、人はいないことはないのだが人材がいないのです、と言っておられました。それはおそらく牧師として、教会に仕えるにふさわしい人物がいない、ということなのだと思います。どんな人物がふさわしいのか。指導力が必要だ、といっても傲慢なマニピュレーターでは困ります。逆に謙遜過ぎて、進む道が定まらない、ということでも困るでしょう。打たれ強いことも必要かもしれません(笑)。なかなか難しいことです。
自分のことを棚に上げてではありますが、私は、とにかく聖書の言葉をまっすぐに説き明かすことができればそれ以上のことはいらないのではないか、と思うところがあります。例えば、お医者さんに私たちが望むのは、その医療技術としての確かさであって、話が面白いとか、やさしい、とか、人当たりが良いとかということは、付随的なことでしょう。牧師も、付随的なことも大切ではありますが、やはり聖書の言葉の説き明かしを最重要課題と考えるべきだと思います。
さてそんな人材がどこにいるのか。初代教会も決して人材確保の苦しみがなかったわけではないでしょう。聖書は「そこにテモテという弟子がいた」という短い言葉で、神さまの働きを明らかにしています。パウロが宣教の旅に出た時、その先に、働き人が「いた」のです。神さまによって備えられていた、といっても良いと思います。ここに奇跡が起こっているのです。私たちも、新しい働き人のために祈らなければなりません。神さまがきっと備えていてくださることを信じ、期待して宣教の旅を前進していかなければならないと思います。人材が確保されたから宣教活動を始めよう、ではなく、宣教活動が進む先に神さまが人材を備えてくださるのです。
このテモテはふさわしい人物でした。どうふさわしいのか。
「彼は、リステラとイコニオンの兄弟たちの間で評判の良い人であった」。
パウロが、連れて行きたい、と思ったほどの人物ですから、さまざまに有能な人材だったのだと思います。しかしそういう人材としての有能さ以上に、教会における、評判の良さ、を聖書は記しています。
使徒15章で行われたエルサレムでの会議の争点は、救いにおいて割礼は必要かそうでないか、ということでした。この会議で、パウロは、割礼は必要ではない、ということを強硬に主張しました。そのパウロがここで、テモテに割礼を受けさせているのです。それを聖書は「その地方にいるユダヤ人たちのために」といいます。共同訳では「その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を施した」。本来は割礼を施す必要などないし、むしろ割礼をしないということが福音の真理を明らかにすることを誰よりも知り、公けに主張したパウロが、ここでテモテに割礼を施したのは、人びとの手前、でした。ユダヤ人の中に遣わされるテモテ。その牧師としての出発にいらない軋轢や戦いを避けさせたかった、ということもあるかもしれません。それにしても、割礼はいらないとあれだけ強く主張したのにもかかわらず、ここで割礼を施すのですから、優柔不断とか、二枚舌、とかさまざまな非難は予想されます。しかしパウロはそうしたのです。なんと自由な人であろうか、と思います。
そのようなパウロの指導に素直に従うテモテ。彼の評判の良さの中身は、謙遜と素直さにあるように思えます。ここにテモテの奉仕者としてのふさわしさが現れているように思います。
パルロとテモテ。彼らの巡回宣教の内容を聖書は次のように記します。
「彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を手渡し、それを守るように伝えた」。
エルサレムの会議において決定されたこと。そこで使徒と長老によって作成された規定を手渡し、それに従って信仰生活を送るようにと伝えること。それが彼らの働きの内容でした。宣教活動、そしてその中心といってよいと思いますが、礼拝の説教は、この「伝える」ということにおいてなされます。伝えられたものを伝える、ということです。この伝えるということに終始する教会において宣教は前進します。
「こうして諸教会は信仰を強められ、人数も日ごとに増えていった」。