静まりの時 マルコ7・31~37
日付:2023年01月25日(水)
32 人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。
33 そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。
34 そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。
35 すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。
36 イエスは、このことをだれにも言ってはならないと人々に命じられた。しかし、
(マルコ7・32~36)
イエスさまは人びとが連れて来た耳が聞こえず口のきけない人をいやしてくださいました。耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようにしてくださいました。人びとの中にありながら、人びとと自由に交流する道が断たれていた人を、そのコミュニティーの中にあって自由に交流することのできる人としてくださいました。癒しは、身体の恢復であるとともに、その人の共同体への回復でもあり、それは共同体そのものの回復でもあったのだと思います。
イエスさまはこのいやしのみわざを「だれにも言ってはならない」と人びとに命じられました。またこのいやしそのものも群衆から引き離して行なわれました。「いやし」というと、その宗教が拡大するための大きな力であり、かくすどころか、大いに宣伝されるべきことではないでしょうか。しかし私たちが信じるイエスさまは、いやしを、宗教宣伝のための道具にされなかったということかもしれません。
それは、一人の人を大切にする、ということかな、と思いました。
「エパタ」。それは「開け」という意味である、ということです。当時使われていたアラム語とのこと。アラム語はヘブル語の親せきのような言葉で、もともとはバビロニアでも使われていたとか。アーメン、や、ハレルヤ、のように、礼拝で使用されていた言葉だったのだと思います。
教会で聖書友の会という聖書を学ぶ小グループがありましたが、この名前を冠した「エパタ聖書友の会」というのがありました。耳の不自由な方とともに聖書を学ぶときでした。いちど耳の不自由な牧師を招いて特別集会も行なわれたように記憶しています。