隠れていることはできなかった

静まりの時 マルコ7・24~30
日付:2023年01月24日(火)

イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。
(マルコ7・24)

 「隠れていることはできなかった」。共同訳2018では「人々に気付かれてしまった」。原文では新改訳のように「隠れていること」が「でき」「ない」と、三つの単語から成り立っています。
 この「でき」「ない」の、「でき」は、ギリシャ語で「デュナマイ」。ダイナマイトの語源になったといわれる「デュナミス」の動詞です。全能なる神さまであるイエスさまがこのとき「できない」ことが起こった、というのです。あるいは、主イエスさまにもできないことがあった、と読んでもよいのではないかと思います。
 全能者にとって「できないこと」。それはいったい何でしょうか。聖書の語る神は、全能者であるとともに、愛の神です。全能、すなわち「何でもできる」ということも、「愛において」何でもできる、ということです。聖書の神は愛に反することは「できない」のです。
 しかしそれは能力として本当にできないのか、というと、能力としてはできるのだと思います。能力としてはできるにもかかわらず、「できない」というところに立たれる、それこそ、本当の全能である、ということだと思います。愛において全能であるということ。そして全能であるからこそ、愛である神さまなのだ、ということ。神さまの愛と全能は一つであると語るのだと思います。
 ですからイエスさまは十字架に向かわれました。十字架に向かうことができました。十字架に向かうことができるということは、自らを十字架に磔(はりつけ)にしようとする人たちの暴力をあまんじて受ける、という道を歩むことでした。すなわち十字架の道を防ぐことが「できない」という道に歩むことでした。主イエスさまは、わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、という、全き無力、何にも「できない」ということの中に立つことも「できた」お方なのです。

 今朝の箇所で、イエスさまは「だれにも知られたくない」と思っておられたのです。しかし「隠れていること」が「できない」ところに立ってくださったのです。「隠れていることはできなかった」というお姿に、私たちは十字架に向かわれる主イエスさまのあり方を発見します。
 このイエスさまの隠れていることが「できない」ということが、シリア・フェニキアの母と幼い娘に祝福がもたらされました。

 信仰に生きる、ということは、往々にして「できる」ということを自らの人生に得ること、と考えるかもしれません。祈りによって、それまでできなかったことができるようになる、ということは魅力的です。しかしキリスト教信仰に生きるということは、「できない」ということが生み出す愛の人生を引き受けることである、ということではないでしょうか。そこでささげられる祈りは、できないということの中にとどまり続けることができるか、できないということを引き受けることができるか、ということにおいての闘いなのだと思います。主イエスさまが十字架を前にしてささげられたゲツセマネの祈りのように。

星野富弘さんの詩に「はなきりん」というのがあります。

はなきりん

動ける人が動かないでいるのには
忍耐が必要だ
私のように動けないものが
動けないでいるのに
忍耐など必要だろうか
そう気づいた時 私の体をギリギリに
縛りつけていた忍耐という
棘のはえた縄が
”フッ”と解けたような気がした

星野富弘

 自由のきかない身体に生きることとなった星野さん。そのさまざまな思いは私などにははかり知れませんが、この詩を読んで、星野さんは、できない、ということの中に意味と、そして恵みを見出しておられるのかな、と思いました。主イエスさまの十字架の道も、その苦しみは想像を越えています。しかし、何人もイエスさまの十字架への道を妨げることはできませんでしたから、愛の道の完成に向かう自由がイエスさまには確かにあったのだと思います。「できない」を受け入れる者、そうして愛に生きようとする者には、まことの自由があるのだと思います。できない、ということが、本当の自由をもたらすのです。

 今日は団体の理事会が、オンラインで行われます。対面で「できない」ということが、ここにも新しい恵みと自由をもたらしているのかもしれません。