静まりの時 2022年12月27日(火)
詩篇136・1~26
1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
主の恵みはとこしえまで。
2 神の神であられる方に感謝せよ。
主の恵みはとこしえまで。
3 主の主であられる方に感謝せよ。
主の恵みはとこしえまで。
・・・
25 主はすべての肉なる者に食物を与える方。
主の恵みはとこしえまで。
26 天の神に感謝せよ。
主の恵みはとこしえまで。
(詩篇136・1~3、25、26)
「感謝せよ」は命令形ですが、強制するというよりも、神さまに感謝を捧げましょう、と呼びかけているような言葉なのでしょう。その言葉に応答するように「主の恵みはとこしえまで」と続きます。礼拝での言葉なのだと思います。今日プロテスタント教会の礼拝でも聖書の交読が行われています。礼拝とは前に立つ者と会衆との呼応によって成り立つ交わりなのです。
この詩篇は、感謝を3回献げ、具体的な出来事への感謝が捧げられ、感謝の言葉をもって終わります。
一年が間もなく終わろうとしています。今年もさまざまな出来事の中に歩むこととなりましたが、主にある者は、すべてを感謝の言葉をもって終えることができるように主に招かれています。たとえ自分にとって手痛い経験であっても、後悔ばかりが心に起こる事であっても、神さまを信じて生きる、ということは、すべての事をこの「感謝」の言葉をもって振り返ることができるということなのです。過去への感謝に生きる者は、現在をしっかりと生きることが出来、将来に向かって希望をもって踏み出す者としていただきます。
3度の感謝と最後の感謝に挟まれて、さまざまな具体的な感謝すべき言葉が語られています。いずれもイスラエルにとって忘れ難い感謝な出来事だったのだと思います。創造主である神さまは歴史を導く神さまでもあります。
その最後の感謝に「主はすべての肉なる者に食物を与える方」とあります。歴史を導いてくださった主は、日々の糧を与えてくださる方です。この日々の糧を与える神さまへの感謝がすべての感謝の締めくくりとして歌われます。
今日も食事が与えられた、ということを感謝すること。神さまを信じる者の基本であり、おおよそ人間であることの基本なのかもしれません。そしてその感謝を持っているならば、人間としてしっかりと生きることが出来るということかもしれません。どんなに人びとから称賛されることを成し遂げたとしても、日々の糧への感謝を忘れてしまうならば、人間としてしっかりと生きているとはいえない、ということかもしれません。
困難な中にある時、行き詰まる時、それでもお腹がすくということが人を救うことがある、と聞いたことがあります。家族を失った悲しみの中で、食べ物ものどを通らなくなってしまったとき、それでもお腹がすく、ということが生きる力を生み出す、ということです。
食べ物は、黙って食べられるためにそこに存在しています。神さまはその糧を備えてくださったのです。そして何よりも主は「食べられる者」として私たちに自らを差し出されました。「取って食べなさい。これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです」。
聖餐式のことを、ギリシャ語でエウカリスティア(ユーカリスト)、と言いますが、これは、感謝、という意味です。カトリック教会では、説教が語られる礼拝の部分を「ことばの典礼」と呼ばれるのに対して、パンとぶどう酒が食される礼拝の部分は「感謝の典礼」と呼ばれています。
いずれにせよ、日々の食卓の時は主への感謝の時でもあるのです。食前食後に短く神さまへの感謝を捧げて食卓を囲む幸いが、信仰者に与えられています。