私が苦しみの中を歩いても あなたは私を生かしてくださいます

静まりの時 2022年12月28日(水)
詩篇138・1~8

6 まことに主は高くあられますが
 低い者を顧みてくださいます。
 しかし高ぶる者を遠くから見抜かれます。
7 私が苦しみの中を歩いても
 あなたは私を生かしてくださいます。
 私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし
 あなたの右の手が私を救ってくださいます。
8 主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。
(詩篇138・6~8a)

 「恵みとまこと」(2)。恵みは、慈しみであり愛です。神さまは一方的な愛を私たち一人ひとりに傾けてくださいます。その恵みは「まこと」に満ちています。偽りではなく、また不義ではありません。真実に私たちを愛してくださるお方であり、また私たちに真実を尽くしてくださるお方。また私たちが真実に生きることができるように導いてくださるお方です。恵みとまことに満ちておられるお方こそ、主イエスさまです。十字架は、神さまの愛と義に満ちています。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネの福音書1・14)

 主は高くあられる、しかし、その高くあられるお方が、低い者を顧みてくださるのです。共同訳2018では「主は高くおられ、低くされた者を顧みる」。高くおられるけれども、低くされた者を顧みる、というよりも、高くおられるからこそ、低くされた者を顧みることができる、とも読むことができるのではないかと思います。確かに低くされた者を顧みるためには、高いままではできません。低くならなければなりません。しかしただ低いままでは、低い者を助けることが出来ないので、顧みることもできないでしょう。高くあられる、ということと、低くあるということが一つになるお方でなければ、顧みることができないのです。イエスさまは、まことの神でありながら、まことの人となられました。私たちは主イエスさまのお姿の中に、まことの神のお姿と、まことの人の姿を見ます。

 主は、私が苦しみの中を歩いても、私を生かしてくださいます。苦しみは依然あるのですが、しかし主がいのちを与え続けてくださいます。また主は私の敵の怒りに向かって御手を伸ばしてくださいます。そうして敵の怒りから私を守って下さるということでしょう。怒り、という感情は、神さまが造って下さったものですので、大切な感情です。悪や不正をただすためには、怒りは大切な役割を果たします。しかしそれでも怒りはたいてい破壊的です。本人の意思に反して暴走します。敵の怒りに対抗するのに、こちらも怒りをもって臨んでしまうと、何かを成し遂げるということが難しくなります。敵を赦しなさい、と言われた主イエスさまを見上げつつ、主にある者は、主が救って下さることを待ち望み、主にゆだねます。主の右の手が私を救ってくださるのです。そうして主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。

 敵というと、大抵は自分以外の誰か、何かを想像しますが、聖書の語る最大の敵は、自らの中の罪であり、高慢、傲慢です。主は高ぶる者を遠くから見抜かれます。高ぶる、高慢、傲慢である、という人生は、木登りでいうと高い所に登ろうとする生き方でしょう。登れば登るほど不安定になります。あたりを見ながら必死で揺れに抵抗しなければならないことになります。しかし逆に低く降れば、どっしりと天を見上げて安心していればよいでしょう。あたりを気にすることもなく、むしろ地に生きるさまざまな虫や草花を、同じ視線で眺めながら平安に生きることが出来るでしょう。高慢という敵は、私をむしばみますが、謙遜、へりくだりに生きるならば、健やかに人生を生きることができます。大安心です。