私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう

静まりの時 2022年9月6日(火)
ローマ14・13~19

「こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。
 私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。
 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。
 ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
 ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」
(ローマ14・13~19、新改訳2017)

 ローマ書のテーマは「信仰による義」ということですが、ローマの教会に起こった問題としては、互いにさばき合っていた、ということが考えられます。信仰による義が見失われていく、すなわち人間が義と認められるのは行為によるのだ、ということが語られ始めると、互いにさばき合うような共同体になってしまう、ということでしょう。
 「自らが義と認められたのは、私の生き方がちゃんしていたからだ」と思い始めると、他の人をさばき始める人になってしまう、ということでしょう。逆に互いに受け入れ合って、ゆるし合って、共に生きようとするためには、自分が義と認められたのはただ一方的な神さまの愛によるのである、ということがちゃんと確認されている必要がある、ということです。
 そうすると、他をさばかずにはおれない心というのは「自分が義と認められたのは自分の業のなせる結果である」という思いがその心のどこかにある、ということです。つまり高慢であるということですね。そういう心があると「ともに生きる」ということが難しくなります。

 互いにさばき合うということが鮮明になる場面はいろいろあると思いますが、このローマ書では「食べたり飲んだり」といった場面だったようです。つまり食事の時に、さばき合いが起こっていた、ということです。本来、麗しい交わりの中にあるはずの、むしろそのような交わりを築く場所である食卓が、さばきの場になってしまっていたというのです。教会は罪のこの世から離れた神聖なところなので、巷のどろどろとしたことにはかかわりがないという幻想は、ここで捨てなければなりません。もし私たちが初代の教会に出席したならば、つまづいてしまうようなことが起こっていたのです。しかしそれが教会である、と聖書は語っているところがあると思います。つまり教会こそ、人間の罪が鮮明に現れるところである、ということです。まことの光が照らされるところなのですから、当然と言えば当然のことです。教会の外の世界は、ただまことの光が鮮明でないので、罪が隠されやすいということかもしれません。

 パウロは勧めます。

「ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう」

 食べたり飲んだりするときも、平和に役立つこと、お互いの成長に役立つことを追い求めましょう、というのです。教会生活は、この一人ひとりの信仰による努力、あるいは配慮の上に成り立つのだ、と言っているのだと思います。

 さて、この食べたり飲んだりということで、具体的にはどんな問題が起こっていたのでしょう。14章の最初の言葉に注目したいと思います。

「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。・・・」(1~3)

 当時、信仰的に汚(けが)れた食材とそうでないものがあり、汚れたものは口にしないというキリスト者がいたということでしょう。旧約聖書を読むと、そのような教え、戒めが認められます。旧約聖書に忠実に生きようとした人、あるいはその文化の中に長く生きてきた人にとっては、汚れた食材を食べないという生き方は、イエスさまを信じてもなお当然のことであった、ということでしょう。
 しかしイエスさまを信じて以来、神さまの造られたもので聖くないものは一つもないと教えられました。ですから何を食べてもよいのです。私たちキリスト者には、戒律として食べてはいけないものは何一つありません。
 ですから「ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません」という状況が起こっていました。それ事態は問題ではありません。食べる人がいても食べない人がいても、それぞれの生き方ですから、それをそのままに受け入れるところが教会であるはずです。
 問題は「食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません」と言われていることから考えますと、双方が見下したり、さばいたりしていたということです。人間、互いの違いを受け止めることは、キリスト者になってもなお難しいのでしょう。先ほど、平和に役立つこと、お互いの成長に役立つことを追い求めよ、と言われましたが、それは、互いの違いを受け入れ合う、というところに実現していくことなのかもしれません。互いの違いを受け入れる寛容な心無くして、平和に役立つこと、お互いの成長に役立つことを追い求めることは難しいのです。

 いままでもいく度か考えていますが、「信仰が弱い」ということを聖書はどのように語っているのか、考えておきましょう。

「ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません」

 何を食べてもよいと信じている人に対して、信仰の弱い人は野菜しか食べない、というのです。野菜しか食べない、つまり肉は食べない、なぜなら町に流通して一般人が食べることのできる肉は、すべて偶像の神にささげられた動物の肉だからです。そんな偶像にささげられた肉など口にしない、と言う人。その人のことを、パウロは(信仰の)「弱い人」と言っています。

 私たちは信仰が強い、あるいは弱いということをどのように考えているでしょうか。偶像にささげられたものは、いっさい口にしない、という人の方こそ、信仰が強い、と考えているところがあるのではないでしょうか。逆に、偶像にささげられたものであっても一切気にすることなく食する人を、いい加減で、信仰のあやふやな人、弱い人、ととらえてしまっているのではないでしょうか。パウロは、その逆をここで語っているのです。
 その上で大切なことは、パウロは、みな信仰の強い人になりなさい、と言っているのではないということです。弱い人は弱いままに、強いと思っている人は強いままに、互いを受け入れよう、と語っているのです。

 森本あんりの『不寛容論』の読みかじりですが、人間に寛容さが求められる場面には、必ずそこに不寛容にならざるを得ないような現実がある、また人間が寛容であり続けるためには、そこには受け入れることのできないことがある、といいます。これは忍耐ということにも当てはまりますし、愛ということにも当てはまるでしょう。忍耐が必要な現実が存在しないところでは忍耐は絵に描いた餅です。愛を働かせるなければならないということは、愛することのできない存在が目の前にあってこそ、意味を持ちます。苦しみのすべてが解消されたところで、忍耐しているのですよ、というのは滑稽ですし、愛に囲まれているところで、私は愛に生きています、というのは、あれれ、と思います。同じように、寛容でいられるための条件をすべて整えたところで、私は寛容に生きています、というのは、たんなるわがままなような気がします。

 互いに受け入れ合う、そういうところが教会である、ということですが、そのためには、自分にとって「受け入れることができないこと」がそこに存在し続けることが、その条件となるようです。そこで安心して、互いに受け入れ合う共同体が実現するためには、その「受けいれることができないこと」の範囲がしっかりと互いに確認できている、ということがまた必要なことなのです。この話はまたいつか。