兄弟に対して怒る者は

静まりの時 2022年9月5日(月)
マタイ5・21~26

「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
 ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。」
(マタイ5・21~26、新改訳2017)

 マタイ5章から7章に記されている山上の説教の鍵は、「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」(5・20)です。宝の箱を開けるための鍵のように、この言葉によって、山上の説教のすべての言葉の扉が開きます。
 イエスさまが語られた「あなたがた」とは、みもとにやってきた弟子たち(5・1)、すなわちイエスさまを信じイエスさまに従っていこうとした人たちのことです。私たちキリスト者のことですね。イエスさまは、私たちキリスト者に向かって、イエスさまに従う道とはこのような道ですよ、と語って下さったのが山上の説教である、ということです。
 対比されているのは「律法学者やパリサイ人」。彼らの義にまさる義に生きるのがキリスト者である、ということです。そこで戒め的なことが語られていきます。しかしそれは律法学者やパリサイ人のように、自分の力で義を打ち立てる生き方ではなく、イエスさまを信頼してイエスさまによって義としていただく生き方です。
 今朝のところも、「怒ってはならない」と言われているのですが、イエスさまを信頼して怒りを捨てていく、そういう生き方にキリスト者は招かれている、ということです。イエスさまが私の人生を、怒りを捨てた人生に造り替えてくださる、ということなのです。

 さて十戒で教えられている「殺してはならない」という戒め。キリスト者は、殺してはならないのは当然のことであるが、それだけではなく、心に怒りを抱く、ということそのものを棄て去りなさい、とイエスさまは言われました。かなり人間離れした言葉だと思います。
 写本の歴史を見ると、この個所には「理由なくして」という言葉を入れた写本があるそうです。いくら何でも怒らないということでは、社会正義は成り立たない、と考えたということでしょう。

 むかし行きがかり上、中学生のサッカーの審判をしたことがありました。サッカーの審判というのは、広いコートを選手と同じぐらい駆け回ることになり、なかなかしんどいことなのですが、今からは考えられませんが、一所懸命やっていたのですね。そのとき先輩の先生から教えられたことは子どもたちのラフプレイに対してはしっかりと「怒れ」ということでした。サッカーですから、故意であってもなくても、ぶつかったり、けったりということが起こります。見過ごしにしたりいい加減な対処をすると、試合が荒れてきます。試合中は何とかトラブルなく終わっても、その後で体育館の裏に生徒が呼び出されているということが起こったり(笑)。なかなか大変なのです。それでしっかりと「怒る」。この審判は、ラフプレイを見逃さない、ゆるがせにしない、という雰囲気を醸成する、それがあとあと試合をよく流していくことになるのですね。
 ということで、怒りは、実は大切なことです。ですから理由があれば怒りも大切なことである、ということを書いた写本があるというのもうなづけることです。

 しかし、ここからが大切です。聖書はやはり「理由なくして」という言葉を書いていないのです。礼拝で用いることができる聖書(私たちが日ごろ親しんでいる聖書のことです)は、おそらくこれが最初の聖書であろうという校訂本から訳されていますが、それには「理由なくして」はないのです。
 つまりイエスさまは、ただ「怒ってはならない」と言われたのです。ですからかなり人間離れした言葉だと思います。理由があろうがなかろうか、いっさいの怒りを捨てよ、と言われるのです。

 そもそも理由のない怒りということがあるでしょうか。私たちが怒る時、そこにはかならず理由があるのではないでしょうか。私なりの正義があるのではないでしょうか。その正義が脅かされたと感じたからこそ、怒りを持ったのではないでしょうか。自分がここで怒るということは当然のことである、正当なことだ、と自負したからこそ怒ったのではないでしょうか。
 そんな私たちに向かってイエスさまは、怒りを捨てよ、と単純に、シンプルに語られたのです。ものすごいチャレンジだと思います。
 そのような人間離れしたことは、私たちには不可能なのだと思います。それが可能なのは、ただイエスさまだけです。イエスさまは十字架への道を歩まれました。不当な裁判、偽りの訴えのまえに、ひたすら黙されました。そればかりか、自らのいのちを奪おうとする者のために祈られました。「父よ、彼らを赦してください」「彼らは何をしているのかわかっていないのです」と。私たちは、ただこのイエスさまの前に、怒りやすい自らを悔いるしかありません。主よ、きょうも怒りに打ち震えてしまいました、どうかこの怒りを棄て去らせてくださいと、願い求めるしかないのです。

 この個所には、和解の勧めがなされています。自らが誰かに対して恨んでいる、ということではなく、誰かが自分を恨んでいる、そのことに気づいたなら、和解のために努力しなさい、というのです。
 誰かが自分を恨んでいる、そういう状況を想像できるでしょうか。これにはかなり敏感な心が必要となります。それは人の顔いろを伺って卑屈な生き方をすることではありません。人間生きているだけで、いろいろな人に迷惑をかけているものです。そのことを少しでも想像しながら、生きていく。誰かに怒りを覚えた時に、自分もそれ以上に怒りを買うようなことをしているのだ、ということを想像している。そうしてイエスさまの前にそのような心を注ぎ出し、赦しの心を与えていただく。そんな優しい信仰生活が語られているのだと思います。
 そうしてできるかぎり、和解を目指していく。相手を糾弾してやり込めることではなく、また言い訳することでもなく、和解をしていくことが、イエスさまに従う者の生き方である、ということでしょう。そのためには、怒りを捨てる決意が必要でしょう。和解に進む道に怒りの心は邪魔になります。自らの義に固執して相手をさばくことだけであれば、和解は成り立ちません。自らの義を捨てる、という覚悟が必要となるのだと思います。結婚式で引用します吉野弘の祝婚歌の一節。

「・・・
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
・・・」

 自らの義にしがみつきたくなる心を自由にしていただき、怒りを捨て、今日も平安な一日を過ごしていきたいと思います。とはいっても腹が立つことにも出会っていきますが・・・(笑)。

 礼拝のビデオ撮影での工夫が続いています。プロジェクター画面をより見やすくしたいと思ってのことだったのですが、逆効果だったようです。次回はまた工夫を重ねたいと思います。人生はいつも勉強です。