様々な試練にあうときは

静まりの時 2022年8月27日(土)
ヤコブ1・2~8

「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」
(ヤコブ1・2~4、新改訳2017)

 イエスさまを信じて生きていくキリスト者には、「完全な者」となる、という目標が与えられています(マタイ5・48)。完全な者、完全な信仰生活、完全な人生、などなど。いずれもこの生涯においては完成されることがないとも言われています(ピリピ3・12)から、完全を目ざして、完全を追い求めている、というのがキリスト者の生き方なのだと思います。
 では完全な者とは一体どういう人をいうのか。完全な信仰生活、完全な人生とは一体どのような状態をいうのか。

「そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります」。

 「そうすれば」というのは、「忍耐を完全に働かせなさい」ということですから、忍耐を完全に働かせることができれば、完全な者になる、ということです。完全な者には、忍耐を完全に働かせることが必要不可欠である、忍耐を完全に働かせていないと、まだキリスト者は、その完全には至っていない、完全を目指す信仰生活がいまだ始まっていない、ということでしょう。
 ここで「忍耐」といわれているのは、単に苦難を我慢するというのではなく、「信仰が試されると」ということですから、信仰の試練の中にあって忍耐することです。かつてアブラハムが息子イサクを献げよと神さまからの試練を受けました。その試練とは、徹底的に神さまのみことばに従う、ということの試練でした。そこでの忍耐ということは、御言葉に従うことの忍耐、みことばに従うことによって巻き起こされる様々な苦難に対して忍耐する、耐え忍ぶ、ということでしょう。みことばに従うということは、また真理に従って生きようとするということでしょう。真理に従って生きようとすると、この世では苦難が巻き起こるのです。その苦難に忍耐するということで、キリスト者は完全な者となるのだと思います。

 つまり、信仰生活の完全の中には、御言葉に従うことの苦難とそれに対する忍耐が含まれている、包括されているということです。

「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」。

 さまざまな試練にあうときは、忍耐を働かせるときが到来した、それによって信仰が完全とされるときがやってきた、とこの上もない喜びのときがやってきたとキリスト者は思うように招かれています。