渇く者は来なさい

静まりの時 2022年6月4日(土)
黙示録22・12~17

「御霊と花嫁が言う。『来てください。』これを聞く者も『来てください』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」
(黙示録22・17、新改訳2017)

 「御霊と花嫁」。これは教会のことです。教会にて、その礼拝において「来てください」「主よ、来てください」「マラナ・タ」(アラム語)と語られます。するとそれを聞く者も、その声に導かれて「来てください」「しゅよ、来てください」「マラナ・タ」と言うのです。この主の再臨を待ち望む礼拝が捧げられるところで「渇く者は来なさい」との招きの言葉が語られます。再臨を待ち望む信仰が、渇く者への招きの言葉を生み出します。

 「渇き」とは、何でしょう。私たちは渇きを覚える者でしょうか。
 気候が暑さに向かうとき喉の渇きを覚えます。乾燥すると喉の渇きを覚えます。神さまはそのように私たちを創ってくださいました。渇きを覚えることが、水分への要求を生み出し、身体が守られるのです。もし渇きを覚えることがなければ、知らず知らずのうちに、身体から水分が失われ、気づいたときには脱水症状の中で身動きができなくなるでしょう。
 同じように、魂の渇きを覚えることがなければ、いのちの水への要求が生まれません。
 私たちは、魂の渇きを覚えているでしょうか。自分が、渇く者、であることを知っているでしょうか。今、私が渇いているとすれば、その渇いているという現実をどれだけ把握しているでしょうか。もし魂の渇きを覚えることがなければ、いのちの水を求める心が生まれず、いつの間にか魂が死んでしまいます。

 どのようにすれば、渇き、を私たちの人生の中に置くことができるのか。それは「主よ、来てください」と再臨の主を待ち望む信仰によって生み出されるのです。再臨への信仰が、いのちの水を欲する者へと私たちを導きます。

「いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい」。

 いのちの水は、ただで与えられます。価なしに与えられます。価なしで与えられなければなりません。自らの何かによって獲得するものではありません。自らが獲得したものならば、私たちは自らを誇っていまう者になるでしょう。私たちに誇るものは何もありません。ただ一方的な神さまの愛によって、私たちの渇きはいやされるのです。

「渇く者は来なさい」。

 渇きがいやされるためには、イエスさまのもとに行かなければなりません。来てくださいと主を待ち望む「御霊と花嫁」、すなわち教会に、その礼拝に行かなければなりません。その信仰が、自らの渇きをいやす道へ、私たちを導きます。

 ただで受けよ、というぐらいなので、向こうからやって来てくれてもよいようなものですが、やはり、私が主のもとに行かなければならないのです。主は、それを待っていてくださいます。放蕩息子のところに父は出かけることもできたでしょう。しかし父は待っておられるのです。今か今かと待っていてくださるのです。

 明日は主の日。礼拝の日です。今日は備えの日で幾人かの方が礼拝の準備に来会されます。感謝です。良い備えのうちに、明日の主の日を迎えましょう。私たちの魂の渇きを真実にいやすことの出来るいのちの水をいただくために共に礼拝をささげましょう。