静まりの時 2022年6月3日(金)
第一ヨハネ5・6~12
「神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。」
(第一ヨハネ5・10、新改訳2017)
神の御子を信じる。イエスさまがキリストである、救い主であることを信じる。イエスさまは天と地を造られたまことの神であり、十字架と復活の主であることを信じる。自分は罪の中に滅ぶしかなかった者であったが、このお方によって救っていただいた。今はこのお方を信頼して生きる。そのようにイエスさまへの信仰に生きる者は、その「うち」に「証し」を持っている、とヨハネは語りました。
どうしてこういうことが語られなければならなかったのでしょう。イエスさまを信じながらも、自らのうちに証しを持っていない、あるいは証しを持っていないかのような生活をしていた、ということでしょうか。
「証し」というのは、法廷用語である、といわれます。目に見えない神さまが、ちゃんとご存在下さり、生きて働いておられる。そのことが、信仰者一人ひとりの信仰生活によって「証言」されていく。法廷において、悪魔が、神さまなんかいないだろう、たとえ神さまがおられたとしても、あなたの人生を変えることなど不可能であろう、もし神さまがおられて、本当にあなたを愛しているというのならば、その証拠を見せよ、と迫ります。そのときに証言台に立つ私たちが、ちゃんと神さまは生きておられるのです、私を愛しておられるのです、ほら私を見てください、私の人生をご覧になってください、ということができるということでしょう。
しかし実際自分の生活を振り返れば、そこに立派な証しがあるのか。あなたを見ていると本当に神さまがおられて、そのお方が聖く正しいお方であることがわかる、神さまは生きて働いておられるのですね、と言ってもらえるような生活が自分にあるのだろうか。などと不安になるのは私だけでしょうか。
そんな私に向かって、神さまは、いやちゃんと証しをあなたにも与えています。何よりもあなたが御子イエスさまを信じているということ、そのものが神の業であり(ヨハネ6・29)、証しなのだ、と言って下さっているということではないでしょうか。
もしそのように神さまが、私に語っていてくださるのに、その神さまの愛のお言葉も信じないとすれば、それはもう神さまを偽り者としている、ということなのでしょう。神さまのお言葉よりも、自分の考えや感情を優先しているのですから。神さまを偽り者としていて祝福された人生を歩むことはできません。祝福された人生を歩むためには私たちは、ただ単純に信じていればよいのだと思います。
イエスさまを信じて生きようとする私たちは、たとえ外側からみてその証拠を見つけることができなかったとしても、「うち」にはしっかりと証しをいただいている、ということを忘れないようにしましょう。忘れやすい私たちなのです。世のさまざまな言葉に、あるいは偽りの霊に惑わされやすい私たちなのです。だから常に、神さまからの語りかけに耳を澄ませていなければなりません。誰がなんと言おうとも神さまは私に向かって「神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています」と語っていてくださるのですから。
次週は月曜日から水曜日まで、静岡県掛川市にある施設を会場に日本福音同盟の総会が開催され、久しぶりに出席をします。日本の福音派の教団、団体、教会から120名ほどの代議員が集まり、二泊三日を過ごします。総会ですから、過年度の事業報告や決算報告、新年度の予定や予算を審議するのですが、同時に、9年ほどのスパンで開催される日本伝道会議の準備のための報告や話し合いもあるようです。ここしばらくコロナ禍で対面での会議ができてこなかったのですが、ようやく感染症対策をしつつの開催となりました。
日本の福音派というのは、たとえば米国で福音派というのと、ずいぶん違うものがあります。また歴史的に福音派と呼ばれたグループとも違うことです。日本の福音派は簡単にいうと聖書信仰を土台として集まった教会、教団の群れ、ということでしょう。福音派の中でも今日聖書の読み方は新しい部分を持つようになりましたので、少し複雑です。あるいは日本の福音派は、社会派と呼ばれる教会と一線を引くということを強調して集まった教会、教団の群れ、ということもできます。しかしこれも今日もう少し複雑です。昨年亡くなられた宇田進先生が福音派とは何か、という本を書いておられるので、参考になるのではないかと思います。
今回の日本福音同盟の総会も、当たり前と言えば当たり前なのですが、礼拝で始まり礼拝で終わります。さまざまな教理、教派の違い、また運営に対する意見を持ちつつも、ともにイエスさまを見上げるということで私たちは一つとなるのです。
教会も同じです。礼拝がおろそかにされていくところに一つとなる道は築かれません。私たちの教会では10時に始まり11時過ぎに終わる主日礼拝において、互いが一つとされる道が確かにされていくのです。そして誰よりもこの礼拝を楽しみに待っていてくださるお方がイエスさまです。私たちはイエスさまに礼拝をお献げすることによって、イエスさまに栄光を帰します。それは私たちが、本来栄光を受けることができなくなってしまっていたのですが、救われて再び神さまの栄光を受ける者にしていただいたからです。栄光を受ける者にしていただいた者の最大の務めは、神さまに栄光を帰すことです。神さまに栄光を帰すことは、人間が人間として健やかに生きることです。人間が人間として健やかに生きることができないのは、神さまに栄光を帰すという生き方がされていないからです。人間は礼拝をお献げする者とされて、健やかな人間として生きることができるのです。