私たちはそのことの証人です

静まりの時 2022年4月22日(金)
使徒3・11~19

「しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」

(使徒3・15、新改訳2017)

 生まれつき足の不自由な人が、ペテロとヨハネによって、癒されました。それを見た人びとがペテロとヨハネのところに一斉に駆け寄りました。その人びとに向かって、ペテロは語りました。

「どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」

 ここに奇跡を目の当たりにしたときの人びとの反応が記されています。人間は、奇跡が行われると、そこに神さまを発見するのではなく、それを行った人間を見るのです。人間の力や敬虔さが奇跡を起こしたと見るのです。しかしペテロは、自分たちの力や敬虔さが、奇跡を起こしたのではない、と語りました。ここにキリスト教信仰の大切な考え方が明らかにされています。
 重大な犯罪を起こした新宗教も、いまだにその教祖を崇拝し、そこからなんらかの「力」をいただこうとしている、との報道されます。罪びとである人間には、そのように超自然的な力にあこがれ、それをわがものとしたい、別の言い方をすれば自分が神に、あるいは神のようになりたいとの願望があるのでしょう。その願望こそ、罪びとであることの証しなのではないかと思います。そこにこそ人間の自己中心が明らかにされているのだと思います。自己中心からの解放を語るキリスト教会でさえも、そのような願望を満足させるような宣教活動をしてしまう場合がないわけではありません。猛省しなければなりません。

「・・・しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」
(15,16)

 癒しの奇跡を行われたのは、十字架と復活の主イエスさまである。そのお方の御名を信じる信仰がこの奇跡を起こしたのだ、とペテロは語ります。ここで「その御名を信じる信仰」と「イエスによって与えられる信仰」という二つの言い方をしています。その御名を信じる信仰が奇跡を起こした、というと、そこでまた、自分の信じる力や敬虔さによって奇跡を起こした、との理解がはじまりそうですが、それでは先の、自分たちの力や敬虔さによってではないと語られたことと矛盾します。この信仰とは、イエスによって与えられた信仰である。自分たちの力や敬虔さとは無縁である、という点を明らかにしているのではないかと思います。徹底して、イエスさまがこれらを行って下さったのだと語るのでしょう。

 そこでペテロは、集まった人々に「罪」の話をはじめます。そして悔い改めに招きます。

「ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。」(19)

 ここにもキリスト教信仰とはいったい何であるかが明らかにされていると思います。イエスさまの御名を信じる信仰が奇跡を起こしたのだから、皆さんもイエスさまを信じて、奇跡にあずかりましょう、というのではなく、自らの罪を深く顧み、悔い改めましょう、と語るのです。信仰の焦点は、自らの罪とその悔い改め、神さまによる罪の赦し、解放なのです。それがキリスト教会の信仰です。

 キリスト教会の礼拝では、いつも自らの罪を悔い改め、神さまからの赦しのみ声を聞き、新しい一週間に出発します。キリスト教会でなされる証しは、いつも自らの罪が語られ、十字架と復活の主との出会い、そこで確かに頂いた神さまの赦しが語られるのです。証しとは目に見えない神さまが生きて働いておられることを「証し」するのですが、神さまが生きて働いておられることは、癒しや奇跡によって証しされるのではありません。それでは他の宗教と何ら変わりはありません。人間が自らを罪びとであると告白し、悔い改めて神さまに立ち還る。そのことにこそ、神さまが力強く働ていていくださるのです。教会はその証しを語り続けてきました。ですから宣教活動とは、いかに自分たちが罪びとであるかを語り、そのような私たちを神さまは十字架と復活で赦してくださった、そのような奇跡を起こしてくださった、と語り続けることです。

 私も病気をして、鮮やかな癒しにあずかることをどんなに願い祈ったことでしょう。しかしパウロに語られたように

「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(第二コリント12・9)

 私という人間が心不全という病を負った、というのではなく、心不全という病の中にある私こそ、私なのだ、と少しずつ教えていただいています。それは十字架と復活の主イエスさまに出会った者が味わい知ることのできる恵みの道ではないかと感謝しています。