静まりの時 2022年4月21日(木)
ローマ6・1-11
「・・・キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。・・・」
(ローマ6・3,4、新改訳2017)
イエスさまを信じて歩む信仰生活は、新しいいのちに歩むことです。その根拠と力は、バプテスマ(洗礼)にある、とパウロは語りました。
「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」(ローマ5・20)。しかしだからといって、恵みが満ち溢れるために、ますます大いに罪を犯そう、ということになるのか。パウロは、そんなことはない、私たちが救われたのは「もはや罪の奴隷でなくなるため」である、と語ります。
救われるということは、罪が赦され、永遠のいのちにあずかる者としていただいた、ということです。ただイエスさまを信じるということで、いただくことができる、ということです。しかし、信じたら罪赦され永遠のいのちをいただくのだから、罪を犯す自分を「許す」「許容する」「見過ごしにする」、あるいは「開き直ってしまう」、とすれば、それは聖書の語るところではない、ということでしょう。
私たちが救われたのは、新しいいのちに生きるためなのです。私たちはキリストの死にあずかるバプテスマ(洗礼)を受けました。バプテスマ、洗礼というのは、イエスさまとともに葬られたことです。だから罪を犯す自分は、もう生きてはいません。さらにイエスさまは、父なる神さまのご栄光によって死者の中からよみがえられました。復活されました。それと同じように、私たちもその新しいいのちに歩む者としていただきました。それがキリスト者の信仰生活なのです。
しかし現実の自分を見ると、ちっとも罪に勝利できていない、という姿を見せつけられます。そこで私たちは考えてしまいます。バプテスマを受けたけれども、あれはまあ言えば儀式だ、日々聖書に学び、精進して、新しいいのちに生きるように努力をしなければならない、と。中には、あの授けていただいた洗礼は、いわゆる「水のバプテスマ」である、それに加えて本当のバプテスマ、すなわち「聖霊のバプテスマ」が必要だ、第二の救い、が必要である、と考えるようになる。
しかしここでパウロは象徴的な意味で「バプテスマ」という言葉を使っているのはありません。また水のバプテスマと聖霊のバプテスマを区別しているのでもありません。文字通り、私たちが人生で一回限りの出来事として授けていただいた、あの洗礼式のことを指しています。私たちが授けていただいたときに牧師が語ったのは「水のバプテスマを授けます」ではなく「父と子と聖霊のバプテスマを授けます」だったのではないでしょうか。
洗礼は受けたけれども、あれは象徴的な儀式なのだから、その後の信仰生活の精進が必要だ、などといっているのではないのです。「バプテスマ」ということそのものが、新しいいのちに生きる力に満ちたものなのだ、そのバプテスマを受けているのだから、あなたも新しいいのちにすでに生き始めている、罪を犯そうなどという人生になるはずがない、というのです。
たしかに洗礼を受けても罪を犯してしまいます。ですからやはりどこか信仰生活で精進したり努力したりということが必要でしょう。しかしその信仰生活の闘いも、勝利できるか分からない闘いではありません。すでにイエスさまは十字架に架かり復活してくださいました。それと同じように私たちはバプテスマを授けていただいた。だから今私を生かしているのは既に与えられている新しいいのちなのです。勝利が決まっている闘いを闘わせていただいているのです。永遠のいのちとは、死後の永遠性を語っているだけではなく、今生きているこのいのちの永遠性を語っているのです。
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(第二コリント4・8,9)
共同訳2018では
「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。」(同)
試練の中にあっても、窮しない、行き詰まらない、失望しない。別の言い方をすれば、窮すること、行き詰ること、失望することから自由にされている。どんなに大変な中にあっても、先が見えないことがあっても、イエスさまが与えてくださった平安は変わらない、笑って、何とかなるさ、と明るく生きることができるのです。
その根拠が「バプテスマ」である、とパウロは語りました。
今朝の教会の花壇。花の季節を迎えています。