わたしを信じる者は死んでも生きるのです

静まりの時 2022年4月18日(月)

ヨハネ11・17~27

「イエスは彼女に言われた。

『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。』

彼女はイエスに言った。

『はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。』」

(ヨハネ11・25~27、新改訳2017)

愛する兄弟のラザロが死にました。マルタとマリアは悲しみに沈みます。そこにイエスさまが来てくださいました。マルタは多くの慰めの言葉が語られるところから立ち上がり、イエスさまのもとに駆け寄ります。イエスさまこそ、まことの慰めを与えてくださるお方です。イエスさまのところにこそまことの慰めがあります。

「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」とマルタは語りました。

決して不満を語っているのではありません。静かにラザロの死を受け止めています。マルタは、イエスさまに魔術的な奇跡を求めて駆け付けたのではありません。イエスさまこそ慰め主であると信じ、イエスさまの愛に出会いに駆け付けたのです。そこにイエスさまとマルタの対話が生まれました。そしてイエスさまはまことの慰めを語ってくださいました。

「あなたの兄弟はよみがえります」と語られたマルタは「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています」とイエスさまに答えました。

するとイエスさまは言われました。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

イエスさまを信じる者は死んでも生きる、生きていてイエスさまを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがない、このことを信じるか、とマルタは問われました。

するとマルタは答えます。

「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」。

このこと、すなわち「わたしはよみがえり」「いのち」「わたしを信じる者は死んでも生きる」「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません」を信じるか、と問われたならば、

「はい、主よ。あなたはよみがえりです。いのちです。あなたを信じる者は死んでも生きます。また、生きていてあなたを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません」

と答えるべきところでしょう。しかしマルタは

「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と答えました。ここに教会の信仰告白があります。

復活、永遠のいのちを信じるか、と問われて、イエスさまこそ世に来られる神の子キリストである、と答えたのです。復活を信じること、永遠のいのちを信じること、は大切な信仰個条です。しかしそれもイエスさまが神の子キリストである、という告白に含まれています。かりに復活や永遠のいのちを信じても、イエスさまが神の子キリストであることを信じないとすれば、それはキリスト教信仰ではない、ということでしょう。

教会は霊魂不滅や、死者の生き帰りを信じている、というよりも、イエスさまを信じている、という告白を求めます。「千の風になって」という歌が一時流行しました。慰めに満ちた歌だと思います。決して否定することではありません。しかしキリスト教信仰の告白とはやはり異なるものを持っているということでしょう。

それにしても

「死んでも生きる」という言葉は、豊かな内容を持つ言葉ではないかと思いますがいかがでしょうか。死なない、と言っているのではないのです。人間は死ぬのです。しかしイエスさまを信じるということは、死んだとしても、それでも生きるのだ、と言われたのです。繰り返すようですが、死人を指して、死んでいるのではない、と言われたのでもありません。死は厳粛な現実です。しかしイエスさまを信じる者は、死はもはや絶望ではなくなった、私たちを滅ぼす絶対者、絶対的な存在ではなくなった、ということを語っていてくださるのだと思います。復活の信仰に生きる、ということは、死なない人間になるのではなく、死が絶対者では無くなったという人生を生きる者としていただきます。

死が絶対的なものでなくなったという人生は、二つの恵みを私たちに与えます。

一つは、先ほども言いましたように、死を前にしてもなお絶望から自由にされている、すなわち希望に生きることができる、ということです。

もう一つは、苦しみの中にある時、その苦しみを解決するために死を絶対的な解決の手段として利用することから解放されているということです。苦しみから逃れるために、自ら死を選ぶことは、解決にはならない、ということを、復活信仰に生きる者は知らされたのです。ですからどんなに苦しくても、人間は生きる道を求め見いだすよう努力すべきだと思います。

昨日の礼拝で最初に引用したチャールズ・チャップリンの言葉は、以下の通りです。

“You’ll never find a rainbow if you’re looking down”

「もしも、あなたが下を見ていれば、虹を見つけることは決してないだろう」

「うつむいていたら虹を見つけられないよ。」

また教会が、いつまでも安全、安心な場所としてあってほしい、とのところで引用した言葉は以下の通りです。

「同伴の場を安全なものに保つために、被同伴者が分かち合うことについて同伴者はいっさいのジャッジメント(価値判断)をしません。つまり、さばかない、批判しない、決めつけない、相手に恥ずかしい、責められていると感じさせるような反応をしない、ということです。」

(中村佐知、『魂をもてなす』、あめんどう、2021年、56頁)

「デイビッド・ベンナーは、「魂をもてなす」ことについて、次のように述べています。

『魂をもてなすとは、安全さを差し出すことでもあります。この人は安全な人だと信頼しきって、自分の言葉を選んだり、心にある思いの善し悪しを考慮したりすることなしに、正直に、ありのままの自分をさらけ出しても大丈夫だと感じられるとしたらどうでしょうか。この人は、私の言葉や思いのうち、受け止める価値のある部分は大切に受け止め、それ以外のものは、優しさという吐息で吹き払ってくだるだろうと信頼できるとしたら。

・・・魂の友情とは、批判されたりあざけられたりすることを恐れずに、何でも分かち合える場所を提供することです。・・・』」

(中村佐知、『魂をもてなす』、あめんどう、2021年、58頁)

トマスが、安心して、自分はまだ信じていない、と自由に告白することができる場所を、他の10人の弟子たちは提供したのではないだろうか、とお話ししていました。