静まりの時 2022年4月15日(金)
マルコ15・21~41
「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。」
(マルコ15・21、新改訳2017)
イエスさまが十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かって歩まれます。前日の最後の晩餐の食卓を賑やかに囲んだ仲間たちは誰もいません。ただひとり十字架を背負って歩まれます。
愛する弟子の裏切り、逮捕、連行、いくつもの裁判に引きずられ立たれます。夜が明けると総督ピラトの最終的な裁判と判決。そしてゴルゴタにむかって悲しみの道(ドロローサ)を歩まれます。大工として鍛えられた肉体ももはや限界を迎えておられることでしょう。足がふらつきます。たびたび倒れることになります。しかしそのふらつく足は、私たちの罪の赦しのために着実に前進します。
あまりにふらつくからでしょうか。連行する兵士たちは、十字架刑を一目見ようやってきた群衆のなかから一人を選び十字架を担がせることをしました。選ばれた人物は当然いやがったことでしょう。しかし兵士たちは無理やりに背負わせました。
無理やりに十字架を背負うこととなったクレネ人シモン。彼は「アレクサンドロとルフォスの父」であったと記されます。このルフォスはローマ人への手紙15章13節に登場します。
「主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。」(ローマ15・13)
つまりクレネ人シモンの子ルフォスは、後にローマ教会の一人のキリスト者となりました。そしてこのルフォスがキリスト者となったのは、その父シモンが十字架を無理やりに背負わされたことが始まりであった、ということでしょう。
クレネ人シモンは、たまたまエルサレムに出かけたその旅の先で、無理やりに負いたくもない十字架を背負わされることになりました。それが彼が救いに導かれる道の始まりとなり、さらにはその家族の救いと実を結んでいったのです。おそらくイエスさまの十字架の重たさを、実際に経験し、それを証しすることのできたキリスト者は、このシモンであったと言えるでしょう。旅先の無理やりの十字架は、大きな恵みの道の始まりとなりました。
旅先の十字架。人生の十字架は無理やりに背負わされるものでしょう。突然の病、家族や職場、人生の問題などなど。できれば負いたくはありません。無理やりに背負うこととなったものです。しかしそうして無理やりに背負うこととなった十字架が、救いの道をひらきます。さらに愛する者たちの救いへと広がりを見せていきます。
「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』 訳すと『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
(マルコ15・33,34、新改訳2017)
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とイエスさまは父なる神さまに問われます。十字架に架かるために地に来られた神の子イエスさまが、十字架上でこのように問われます。父なる神さは、沈黙されたままです。
天地万物を創造された全知全能の父なる神さまが、全力を傾けて、沈黙されています。最愛の御子イエスさまを突き放しておられます。拒絶しておられます。突き放す父なる神さま。私はこの父なる神さまこそ、どんなにそのお心を痛めておられることだろうか、と思えてなりません。
その父なる神さまの突き放しを、御子イエスさまは、全力をもって受け止めておられます。神に見放されるという絶望の中で、なお二人称の祈りをささげつつ、受け止めておられます。
私たちも絶望のときに祈ります。かみさま、どうしてですか、と。そのとき、誰よりも深い絶望を経験してくださったイエスさまが、その祈りを共にささげていてくださいます。もはやどのような絶望のところにも、私たちは希望に生きる者としていただきました。
「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。『この方は本当に神の子であった。』
女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。」(マルコ15・37~41、新改訳2017)
イエスさまを見上げて「神の子」と告白したのは、異邦人の百人隊長でした。またこの十字架を遠くから見ていたのは、ことごとく女性たちでした。
『チェルノブイリの祈り』を書いたノーベル文学賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著書に『戦争は女の顔をしていない』というのがあります。漫画にもなっているとのことで少し話題の本ですね。読んでいないので、また読みたいと思いますが、テレビで少し紹介しているのを見ました。女性でしか証言できない戦争の悲惨さ、苛酷さが記されていたように思います。
復活の証人として選ばれるのは、当時、男尊女卑の時代に、証言能力がないとされていた女性たちでした。それは女性たちが、遠くから十字架を見ることのできる人たち、だったからではないかと想像します。
男性たちは、悲惨なその現場にいないのです。しかし女性たちはいるのです。
イエスさまの公生涯において、イエスさまの食事の世話をし、その衣服の選択をし、健康管理に気を使ったのは女性たちでしょう。男性たちは表に立っていろいろと立派なことを話しているかもしれませんが、その背後にいる女性たちにどれだけ配慮され守られていることでしょう。最後にとどまるのは女性たちであった、と聖書は語るのです。
だからこそ、イエスさまの「お身体」に香油を塗る、などという発想が生まれるのです。それが復活の証人となる道をひらいたのでしょう。
今日は、受難日。「聖書愛読こよみ」によると「受苦日」と記されていました。いつもの一日に忙しく過ごされることだと思いますが、すこし十字架を思う、十字架を偲ぶ、ときがあればよいですね。祝福を祈りつつ。
教会のハナミズキ(白)が咲き始めました。