静まりの時 2022年3月18日(金)
マタイ22・34~40
「パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
『先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。』
イエスは彼に言われた。『「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。』」(マタイ22・34~40、新改訳2017)
パリサイ人は、旧約聖書の律法に忠実に生きようとした人々で、宗教家もいれば一般職の人びともいます。彼らは、ローマの文化になびく時の政治や宗教の体制に批判的だったようです。それに対してサドカイ人は、祭司的なグループということで、体制の側に立つ人たちです。このパリサイ人とサドカイ人は、互いに敵対する関係にあったようですが、その敵対する二つのグループが「一緒に集まった」といいます。ともにイエスさまという敵が現れたからです。敵の敵は味方ということでしょうか。それとも普段の自分たちの主張もわきにおいてイエスさまを殺そうとした、それほどの殺意を持った、ということでしょうか。
彼らは問います。「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」。
これに対してイエスさまは、神さまを愛すること、そして隣人を自分自身のように愛すること、この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのだ、とお答えになりました。新改訳聖書の欄外注をみると、一つ目が旧約聖書・申命記6章5節、二つ目が旧約聖書・レビ記19章18節からの引用と記されています。
律法とは十戒(出エジプト20章)のことであるとともに、レビ記等に記されている細かな法律を指し、さらには当時600以上の決まりがあったといわれます。安息日の規定やきよめの規定には、現代に生きる私たちが首をかしげるものもあるようです。
イエスさまは、どれが一番重要な戒めなのか、どの戒めを守れば、ほかの戒めを守ることができなくても大丈夫なのか、との問いに、まず答えてくださったということに心が留まります。すべての戒めが、いずれ劣らず重要なのだ、とは答えられなかった、というのです。他の宗教家ならば、どの戒めも重要である、と答えたのではないだろうか、と想像します。
「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」ということですから、一つを守れば、そのほかの戒めは、どうでもよい、と言われたのではなく、どの戒めにも共通する理念がある、ということでしょう。例えば交通ルールは守らなければなりません。しかし緊急車両が通過するときには、この交通ルールは一時的に停止します。救急車は赤信号でも通過します。他の自動車は、救急車が近づけば、オレンジラインであっても、路線変更をし、駐停車禁止区域でも停車します。まあそういう交通ルールである、といえばそれまでなのですが(笑)。そこには、何が何でも赤信号は通過しない、ということではなく、緊急の場合にはルールを停止すること。それは「いのちを守る」ということが優先されるからでしょう。そもそも赤信号での停止も「いのちを守る」ためですから、いずれも共通の理念によって存在しているルールである、ということが確認されているのだと思います。
聖書の律法も、そこに理念がある、それがないがしろにされるのであれば、そもそもそのルールは間違いである、と考えてもよいのかもしれません。律法であっても細目に至っては時代の限界や文化の限界を持っているということでしょうか。永遠不変のものとしてはやはり十戒を大切に考えることなのかな、という気もします。
もう一つ心に留まることは、一番重要なものを問われたにもかかわらず、イエスさまは二つのことをお答えになられた、ということでしょう。一番大切なもの、ということですから、その答えは一つが期待されているはずですが、イエスさまはわざわざ二つの戒めを答えとされたのです。神を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛すること、と。
この二つが重要である、ということは、この二つは切っても切れない関係にある、片方だけでは駄目である、ということでしょう。神さまは愛することができるようになったので、次は隣人を愛しましょう、というのではなく、隣人愛を持たない神さまへの愛は、それは神さまへの愛となっていない、ということであり、神さまを愛することのない隣人愛も、本当に隣人を生かす愛にはなり得ない、ということでしょう。つまりこの二つは親子どんぶりの鶏肉と卵のような関係で、いずれもそれだけでは親子どんぶりにならないということです(笑)。
また隣人を愛する、その愛は、自分自身を愛するように、ということですから、隣人愛が成り立つためには、その前提として自分への愛が必要である、ということでしょう。自分を愛せない人は、隣人への愛に生きることができない、ということでしょう。
自分を愛せない人などいないのではないかと思いますが、この愛するといことを、受け容れる、というような言葉に置き換えるとすれば、自分を受け容れられない、人生を後悔して受け入れられていない、人との比較でいつも自分を卑下している、ということは案外あるのではないでしょうか。
そもそも人間は自分自身を受け容れることがなかなか難しい者なのです。だれかがしっかりと受け容れてくれる、その愛に出会ってはじめて、自分もまんざらではないな、という感触をいただくことでしょう。赤ちゃんは、この無条件の愛に育てられるのだと思います。しかし、それでも人間の愛には限界があるので、やはり神さまの愛に出会って、すなわちイエスさまの十字架と復活に出会って、人間は自分を受け容れる、ということが可能となるのだと思います。
昨日は2か月に一度の診察の日でした。採血、心電図、レントゲン、と検査がありました。いずれも良好で、主治医曰く、あまりに数値がいいので、貼りだしたいくらいです、と言って下さいました。どうぞ貼りだしてください、とお伝えしました。次回の診察は5月下旬となりました。
少し寒さが戻った感がありますが、ホトケノザが春を告げています。