静まりの時 2021年11月13日(土)
今週は、退院後3度目の診察がありました。
病院に行くと何かしら安心します。なぜかわからないのですが、そこには専門家がいてくれるということからの安心感でしょうか。病院は多くの人が来られているので、予約はしているのですが、大幅に診察時間がずれます。11時の予約でしたが、実際の診察室に入ったのは12時30分を過ぎていました。本を読みながら待つのですが、あんがい苦になりません。昼食の時間も遅れるほどに多くの患者さんを診察している医師や看護師さんの苦労を思うと、読書の時間が与えられていることをむしろ感謝するぐらいです。
自分の計画ではなく神さまの時の流れの中に生かされていることを思うと、少々自分の予定通りに事が進まなくても、それが神さまの時であると受け止めれば、平安です。
検査結果は前回と同様に良い結果でした。退院して三か月が経過しました。退院直後に比べるとずいぶん元気になったように思います。多くの方々のお祈りに感謝しています。
退院からしばらくは、少しの体の不調も、心臓の問題と結びつけて考えるので、心配が黒雲のように垂れこめてくるのですが、心身ともに元気を取り戻してくると、気にする度合が小さくなりました。胸のちくりとした痛みがあっても、単なる筋肉痛だろうと思えるようになりました。
次回の診察は年明けて1月となりました。退院時に、3か月ほどたってからもう一度カテーテル治療をしましょう、ということでしたが、その話は今回ありませんでした。よくなっているということでしょうか。このまましなくてもよいようでしたら、それでよいような気もします。
退院後しばらくしてバイクを手放しましたが、今だとまた乗れるのではないかとまで思えるようになりました。(たぶん乗りませんが)。それよりも娘が中古で買い現在は私たちの車になっている軽自動車が初年度登録から10年以上が経過し、走行距離が14万キロを超え、パーキングではセルが回らないことがしばしばあるという状況なので、こちらを新調すべきでしょう。運転中に心臓発作を起こしても、安全にストップできる車が必要かな、と思っています。もう一台の軽ワゴンは、妻の父から譲り受けたものですが、こちらは初年度登録が2003年ですので、もう18年を経過しています。幾度か修理をしていますが、走行距離がまだ7万キロほどですのと、利用価値が高いので、まだまだ乗ろうと思っています。
バイクは手放したものの、ヘルメットやウェアーをどうするかが今後の課題です。ヘルメットをかぶって自動車を運転するということも可能ですが、かなり不思議な人物になってしまいます。避難訓練の時に使ってみましょうか。
今朝のスポルジョンのデボーションテキストに記されていたのは以下の聖句でした。
「誰もが受ける鍛錬を受けていないとすれば、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。」(ヘブライ12・8、共同訳2018)
「鍛錬」「庶子」という言葉は、新改訳では「試練」「私生児」となっています。
苦しみは、すべての人にやって来ます。その苦しみを「試練」すなわち神さまからの何らかの訓練のように受け止めるのは、信仰があるからでしょう。そしてそこで信じている神さまというお方が愛の存在であることを信じているからこそ、苦しみを試練と受け取れるのだと思います。
そうすると、神さまの実の子である信仰者に試練が与えられる、というのは、信仰者だけに苦しみという試練が与えられる、信仰者でない者には苦しみという試練は与えられないということではなく、信仰者だけが苦しみを試練と受け取ることができる、信仰者でない者にとって苦しみは意味の分からない苦しみでしかない、ということが語られているような気がします。
そうであるとすると、苦しみを試練として受け取れるかどうかこそ、自分が神さまの子とされているかどうかの分かれ道であるように思えてきます。神さまは、十字架と復活によって私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださいました。私の人生に起こるすべてのことは、この愛の神さまのおゆるしの中に起こっていることです。すべての出来事の理由を解明することができませんが、ただ神さまが本当に愛の方であって感謝だなと思いました。
教会の道側に植えられている皇帝ダリアが咲きました。
この虹は11日(木)夕刻のウォーキングで見かけました。
少し進んだでしょうか。これもだんだん飽きてくるのですね。
聖書の学び、神学の学びは少しも飽きることがないのですが。