静まりの時 2021年11月16日(火)
10月3日(日)から説教奉仕を再開させていただき、この14日で7回目を終えることができました。当初30分を立っていることができるかどうかが自信がなく講壇の後ろにいすを置いていただきましたが、いまのところ椅子のお世話になることなく続けられています。感謝です。11月8日の朝日新聞「折々のことば」で以下のことばが紹介されていました。
「『伝える』言葉を『伝わる』気持が支える」(中井久夫)
「伝達には、意識的に『伝える』ことと自ずと『伝わる』ものとがあると精神科医は言う。・・・病名を伝える時は、同時に伝わることへの配慮が必要だ」(鷲田清一)
説教においては「伝える」言葉がまず準備されるのですが、それを伝える礼拝での説教の時の言葉は「気持ち」が支えています。「気持ち」がなくては伝わるものも伝わらないのだと思います。説教の場合「気持ち」というよりも、語る言葉への確信、主イエスさまへの愛、信仰に生きることの決意、救霊への情熱、といったものですが。ですから自ずと語る言葉に力がこもることになります。30分の説教はやはり気力、体力が大切だなと思いました。
ただ神学校の恩師がよく言われた言葉に、神さまは説教者を超えて語られる、ということもあります。自分なりにしっかりと語れたな、と思うときよりも、今日は心身ともに調子が悪くてしっかりと語れなかったかな、と思った時の方が、案外会衆に伝わっていることもある、ということです。
そういう意味では、説教の時間も礼拝をしているのです。語る者は語るということを通して神さまのお働きの中にゆだねながら礼拝をしています。会衆も、聞くということを通して神さまのお働きの中に礼拝をしているのです。
早朝の礼拝が、現在行えていません。早朝出席者の中からの、何とか礼拝の時を持つことができないかとの願いにより、10月末より静まりの時がもたれるようになりました。先日の役員会であらためて確認され「主日の早朝、30分の静まりの集い」という名称で礼拝の時がもたれるようになりました。
内容は礼拝と同じですが、賛美歌が2節まで、主の祈りと使徒信条は奏楽にあわせて、聖書の交読と朗読は朗読、祈りの時は各自でという感じです。説教の時は、私の準備した説教要旨をそれぞれが読み約10分間黙想します。祝祷は私の調子がよければ祝祷となりますが、そうでない時は黙祷となります。6時30分に開始で7時には終了します。
私にとってもよい静まりの時として感謝しています。
14日(日)の午後は、7月の発病以来、はじめて彦根のめぐみキリスト教会での説教奉仕に出かけることになりました。退院時は東近江以外の奉仕が体力的に考えられなかったのですが、オンラインでもよいので一度説教奉仕をお願いしたいということで、それを受けることになりました。
受けてから、オンラインでの説教というのはかえってストレスがあることを予測して、結局おうかがいすることにしました。なんとか奉仕を全うすることができ感謝でした。帰りに車窓から見た太陽は大きくオレンジに輝いていました。帰宅したときはすっかり暗くなっていてウォーキングに出かけることをしませんでしたが、1日の私の運動としては十分だったように思います。99パーセントカカオのチョコレートをいただきました。心臓に良いとのことです。激しい苦さのチョコレートでした。少しづつ楽しんでいただこうと思います。
今朝のデボーションテキストには以下の聖句が書かれていました。
「神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。」(ヘブライ13・5、新共同訳)。
「見放さず」(新改訳2017)、「見捨てず」(共同訳2018)、「離れず」(新共同訳)。
そして「見捨てない」(新改訳2017)、「置き去りにはしない」(共同訳2018)、「置き去りにしない」(新共同訳)。
いずれも二重の否定語をもって記されています。二重の否定語は否定を打ち消して肯定となる場合があると思いますが、ギリシャ語ではこの場合、否定の強調となります。
イエスさまは、何があっても、絶対に見放したり見捨てたり、離れてしまったり、置き去りにしたり、ある訳(塚本虎二訳だったでしょうか)では見殺しにしたりといったことを「絶対にしない」と言っておられるということです。
私たちがこの世で生きていくためにはこの、何があっても見捨てられることはない、という感覚を持っていなければ難しいのではないかと思います。生まれて以来その感覚を育てていただいて、はじめて安心して生きるようになった、生きる力を持つようになった、ということなのだと思います。そういうことでは親が子どもに対してしなければならない事の大切な一つは「私はあなたを決して見放すことがない」という感覚を育てる事だと思います。「決して見放さない」というメッセージは、つまり条件をいっさいつけない、どんなことであっても見放さないということですが、この世界は案外いろいろな条件を子どもに押しつけているものです。極端なこととしては、親が子どもの目の前で誰が別の子どもをほめるということがあり、それがその子にとって、ああ私の親はあの子のほうがよいと思っているのだ、あの子のようにならなければ見捨てられてしまう、という感覚を持ってしまうということも起こるということでしょう。普段から子どものセルフエスティームを豊かに育む環境があればそういうことにはなりにくいのだと思いますので、誰か別の子どもをほめてはいけないということではなく、ほめることはとても良いことだと思いますが、それとともに、あるいはそれ以上に、子どもと一対一になったときには、無条件の愛を注ぐということに心がけることが大切なのだと思います。ここでも「伝える」ことばと「伝わる」気持ちが大切なのだと思います。いくらことばで愛を語っていたとしても、愛が伝わるとは一概には言えませんね。
さて、そうは言うものの、完全な環境の中で育つ人はひとりもいません。どんなに完全に見えた環境があったとしても、何らかの欠けがあるものです。ですから人間は大なり小なり愛に欠乏しています。条件付きの愛の中に育ってしまっています。見捨てられはしないだろうかという不安を持っています。だからこそ、人間は神さまに出会わなければなりません。神さまの無限の愛をいただかなければ生きていくことができません。
神さまが愛そのものであることを明らかにしてくださったイエスさまに、イエスさまの十字架と復活に出会わなければなりません。