父なる神のおられるところへ

静まりの時 2021年8月23日(月)

死はそれ自身で尊いものではありません。むしろ、悲惨です。神の御手による最高の作品がばらばらになった状態を見ること、また、人間の体の中にある神の巧みな刺繍作品が破壊され、不潔になり、腐敗するのを見ることは、神ご自身にとっても心痛むことです。しかし、神を信じるものにとっては、死ぬことは死ではありません。死はこの世から父なる神のおられるところへの出発であり、神の国への入国だからです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、332頁f

イエスさまが父なる神さまに祈ってくださいました。私たちがイエスさまと永遠にともにいることができるように、と。イエスさまとともにおらせてただく目的は、私たちがイエスさまの栄光を見ることである、と言われました。イエスさまの栄光。イエスさまがまことの神さまであることをいつも見るために、私たちはイエスさまとともにいるのです。天の御国に入ったときであるとともに、今この時にも私たちがイエスさまをともにいる、というのは、イエスさまの栄光を見るために今の時があるということでしょう。今日も一日、イエスさまのご栄光を拝して歩みたいと思います。

昨日は、主の日、礼拝の日でした。早朝礼拝、午前の礼拝、ともに最初から参加することができました。和室礼拝室のまえにおかれているソファーで、立つところは最後の頌栄と祝祷のところだけでしたが、礼拝の恵みに与りました。感謝でした。礼拝後は、報告の後すぐに待機しましたので、どなたにも挨拶はしませんでしたが、皆さんの賛美に励まされました。昨日は、おそらくあまり歌われていない新聖歌が2曲ほどあったかと思いますが、とても素晴らしい賛美でした。

「父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。」(ヨハネ17・24)