当時の教会が悔い改めを知らなかったわけではない。しかし、悔い改めから悔い改めへと、毎日、生涯を通じて、罪を知り、悔い改めに徹することを忘れたのである。それは、ただ主キリストの恵みによってのみ生きることであった。ここでルターがイエス・キリストを主と呼ぶだけではなく、師と呼んでいることにも注意したい。主は修道士たちにとって生活上の師匠であった。主イエスに倣う生活にこころがけた。そのことをこころに留めつつ、ルターは、その師が求められた生活が、悔い改めに徹することであったと理解したのである。そのようにしてこそ、主に倣い、主に従うことができる。悔い改めとは、ただキリストの恵みだけを頼りに、神のみもとに帰り続けることである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、322頁
2020年10月31日(土)
福音を信じるということは、悔い改めに徹するということであり、それはただイエスさまの恵みだけを頼りに、神さまのみもとに帰る続けることである、といいます。それがキリスト教信仰であり、また人生の祝福と実を結ぶ生き方である、と。私たちの人生に問題があるとすれば、どうもこの辺があやふやになっていることが大きな原因かもしれません。
「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1・15)