必ず来る審きの日を思い、それに備えて慎み祈りつつ過ごす

必ず来る審きの日を思い、それに備えて慎み祈りつつ過ごす日々に、永遠の光が既に射していたように思う。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、316頁

2020年10月25日(日)

この世には、善に生きても苦をこうむり、悪に生きても幸いに生きることがあります。それでも神さまを信じるということは、この世だけでは完結しないということを信じることでもある、と思います。最後の審判があるのです。それは帳尻合わせのときです。

義人はいないので、すべての人はこの審きの日に裁かれるのです。しかしキリストの十字架と復活を信じる者にとっては、罪が赦されたので、その日は報いの日である、と聖書は語ります。ですからその日を待ち望むことになります。

しかしかといって、どんな生き方をしても大丈夫であると開き直って起きることが良いことかと言えば、そうではありません。聖書はまた「神に対して、自分のことを申し述べる」時でもあるといいます。

「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4・13)