「与うるは受くるよりさいわいない」。この文語文で覚えているひともいるであろう。「受ける」というのは、より強く「取る」という意味の言葉である。・・・教会のなかにあって、自分が取ること、ひとから何かを受けとることをあてにした生き方をしてしまう危険があることを指摘しているのである。ただ物質的なことに留まらない。私たちも教会を評価するのに、ここで自分がどれだけの利益を取ることができるかによることがある。与えられるものが無くなれば去ってもよいと考える。だが、パウロは、教会に生きるということは与えること、これに徹して生きることが、どれほどさいわいであるかを知ることだと言うのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、210頁
2020年7月15日(水)
このイエスさまが言われたとパウロが紹介している「受けるよりは与える方が幸いである」は、福音書の中には記されていません。福音書は、キリスト者の生き証人が少なくなり第二世代、第三世代が多くなる時代に、イエスさまの公生涯を記すという目的の中で書かれた書物ですから、教会の中で書かれた書物です。なぜこの「受ける・・・」が記されなかったのか。それは記す必要もないほどに教会の中で受け継がれてきた言葉だったからでしょう。
教会が私のために何をしてくれるか。人間は弱い者ですから、そのことで教会を評価する人がいかに多いことかと思います。自分も礼拝ではありません。優しいことばをかけてくれるだろうか。安くておいしい食事は提供してくれるだろうか。必要な助けを与えてくれるだろうか。お金を貸してくれるだろうか。相談に乗ってくれるだろうか。役員さんは、教会のために執事としての働きを十分にしてくれるだろうか。牧師は良いメッセージを語ってくれるだろうか。牧会ケアを十分にしてくれるだろうか(笑)。などなど。枚挙にいとまがありません。
たしかにこうしたことを教会のサービスとして教会が担って行くことは大切なことでしょう。しかし受けることと与えることの立ち位置の違いで、これらは教会を生かすことになるかそうでないかの分かれ道になるのではないかと思います。
教会のサービスが不十分であることを指摘するとき、そこに自分自身が「与える」という視点があるかどうかで、その指摘が生きたものとなるか、それとも教会を殺してしまうかの違いが生れるということではないか、と思いました。もし足りないサービスを見つけたならば、自分がそこで「与える」ということを考えること。それが大切です。もちろんできないことをする必要はありません。
「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使徒20・35)