私はもう祈ることもできない。しかし、私のために祈り続けてくださる方があるから

私の知る最もすぐれた聖書学者のひとりはユリウス・シュニーヴィントである。・・・私はもう祈ることもできない。しかし、私のために祈り続けてくださる方があるから、私は、その方にしがみつく。しがみつきながら死なせていただく。使徒ペトロのために祈られた主イエスの祈りを自分のためのものとしていつも聴いていたのであろう。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、205頁

2020年7月10日(金)

救いが、自分の功績によるものではなく、神さまからの一方的な恵みによる、と聖書は語ります。この信仰によるというのは、少しくせ者です。信仰によるということは、自分が自律的(自立的)に信じるという決意をした、そういう心の動きを行ったということでしょう。そうするとそれは自分の「行為」ということになるのではないか、という一抹の疑問が付きまとうからです。その部分が強調されると、結局「信仰」という私の「功績」によって救われると主張していることになるように感じるのです。しかしあくまで聖書は、救いは功績によるのではなく信仰によるのだ、と語り続けるのです。その信仰とはいったい何なのか。それは生涯追及しても完全には得ることのできないものなのではないか、と思われます。

息子の病気の癒やしを願った父が祈った祈り。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9・24)は、本当の信仰を求める者にとっては、大切な祈りなのだと思います。ほんとうに信仰のある人は、自分のなかに如何に信仰がないかを知っているということでしょう。

祈りも同じで、私が祈る、ということにばかり焦点を当てていると、本当に祈りに生かされるということが分からなくなるのだと思います。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22・32)