「礼を失せず」というのは、文語訳では「非礼」であり、口語訳では「不作法をしない」と訳されていた。ひとのこころにづかづかと踏み込む不作法は現代のひとつの特質ではないかとさえ思う。不作法は自分がしていることが不作法であることに気づかないことで最悪となる。そこには愛がない。私たちも、この愛の賛歌によって自分の罪を改めて知る。そしてそのときこそ、真実の悔い改めを学ぶのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、204頁
2020年7月9日(木)
さまざまな問題の中にあったコリントの教会に、愛とは何かをパウロは語りました。この主語に自分の名前を入れて読むと、いかに自分が愛から遠い者であるかが分かります。自分は、忍耐がなく情け深くもない、妬みに燃え、自慢と高ぶりに満ちている、非礼を行い、自分の利益ばかりを求める、いらいらとし不機嫌で、恨みつらみに生きている、不義を見過ごしにし・・・。いかに悔い改めなければならない者であるのか。聖書を読んではじめて知るのです。
非礼とは、をひとのこころにづかづかと踏み込むことである、といいます。愛する者との正しい距離感と、そっとしておいてあげること。そのための忍耐。大切なことなのです。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(1コリント13・4-7)