キリストの真実は変わらない

洗礼を受けて、新しくキリストと共に生きるようになった者が不真実に生きることをよしとすることはない。だが、しかし、そこで更に深く知ったのは、たとえ自分が不真実であったとしてもキリストの真実は変わらないということである。しかもその理由は、キリストはキリストであり続けるのであり、ご自身の真実を貫かれるということにある。私たちに対してと言うより、まずご自身に対して真実であられる。キリストが常にまことの神であり、まことのひとであられることにより、私たちはまことの人間として、キリストのものとして生きることができるのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、160頁

2020年5月29日(金)

聖書の中に「ピスティス」という言葉が登場します。岩隈直の新約ギリシャ語辞典によると、

①信頼(用)を呼び起こすもの

    イ、忠誠(信)、忠(信)実。

    ロ、誓い、誓約

    ハ、証拠、保証

②信ずる事、信頼、信仰

③信仰の教え(使信)

ということで、多くの場合、信仰と訳されています。

この第2テモテ2章13節では、誠実、真実と訳されています。

信仰によって救われるというのですが、その信仰が、どこまでも私たち人間の技に留まり続けるならば、聖書のいうところの信仰に生きるというのとは違うということです。聖書の語る信仰は、ひたすら神さまの真実に支えられていものです。

キリストの真実と訳されているところを、たとえばキリストの信仰と訳してみると、少し印象が変わるのではないでしょうか。キリストが私たちを信じていてくださる。それは私たちが真実だからではありません。あるいは私たちの信仰によるのではありません。キリストに対するキリストの信仰、すなわちキリストに対するキリストの真実によるのです。ですからこの信仰の土台は完全なのです。私たちはその完全な土台の上に安心しているのです。それがキリスト教信仰です。

「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(2テモテ2・13)