「神の言葉を聴いて歩むということは、キリスト者の自由において歩むことである」。・・・「隣人を自分のように愛しなさい!」。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、159頁
2020年5月28日(木)
隣人を愛する、自分のように愛する、それが律法のこころである、律法を全うするということは、自分を愛しているか、自分を愛しているように隣人を愛しているか、との問いが、そのかなめになるのです。杓子定規に聖書のことばを守っているとしても、そこに自分を愛することが実現していない、自分を愛するように隣人を愛していない、とすれば、それは聖書のことばに敵対しているのです。聖書のことばに敵対しているならば、その人生に祝福があるでしょうか。おおよそ聖書のことばを、自分の生き方の正しさを主張するために、あるいは隣人を非難するために利用しているならば、それはキリスト者とは言えないでしょう。
そもそも、自分を傷つけてしまう、隣人を傷つけてしまうのは、自分のなかの罪がそうさせるのですから、それは、罪の奴隷になっているということでしょう。
自分を愛し、自分を愛するように隣人を愛するためには、自由が必要です。罪からの開放、すなわち自由が必要なのです。
自由というと、自分の好き勝手に生きること、自分のやりたいように行動すること、自分のしゃべりたいようにしゃべることこそ自由であると思うのですが、それは自分の奴隷になっているだけです、自分が罪人であるといことを知っている人は、そのような生き方が罪の奴隷であることを知っています。
ほんとうの自由は、神さまのおこころのままに生きることです。自分自身から解放されて神さまのみこころに生きることです。聖書のことばに生きることは、そのようにほんとうの自由に生きることです。そこにこそ祝福された人生があるのです。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。」(ガラテヤ5・13,14)