私は夢想する。主イエスの弟子になりそこなって「悲しみながら立ち去った」(マルコによる福音書第10章22節)金持ちの青年がパウロを語り合っている姿を。・・・この青年は改めて教会にあって、遂に主の弟子になったのではないかと思われてならない。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、158頁
2020年5月27日(水)
この「富める青年」について、富みにとらわれて弟子になりそこなった人物、つまり否定的にとらえられることが多いかもしれませんが、加藤先生の夢想によって、救われた、遂に主の弟子になった人物、つまり積極的にとらえることも大切ではないかと思わされます。
聖書は字義通りに読むことによってより正確に理解できると思うふしがありますが、実はそうでもないように思います。聖書は祈りながら、信仰を持って読まなければ分からないものです。信仰を持って読む、ということは、その作者(聖書の場合は神さまご自身ですが)に対する愛を持って読むということです。それはまたその著者(聖書の場合は直接的に書き表した弟子たちのことです)や、そこに登場する人物への愛を持って読むということにも通じることです。この「金持ちの青年」に対して、自分はこんな人間ではなくてよかったと、読んでいては聖書を読んでいないことになります。それよりも自分をこの青年に重ねて、深く悔い改め、回心への道を求めていくことが大切なのだと思います。
聖書翻訳についてもそうではないかと思わされます。高等な学問を積み上げた偉い学者さんたちの訳もよいのですが、やはりイエスさまへの愛に満たされて訳された聖書の訳は、自らを献身へと導いてくれますね。
「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。」(フィリピ3・6,7)