キリストへの献身こそ自己発見である

これまで自分が得ていた一切を損失と見なし得るほどにすばらしいのは、「わたしの主」としてイエス・キリストを知ったことであった。しかし、そこでパウロは自分が新しく見出されたことを、そのようにして遂に自己を発見し得たことをしる。キリストへの献身こそ自己発見である。すべてキリストに召され、伝道者、愛の実践者、いや、およそキリスト者として生かされた者は、自己を自己として生き抜きえた祝福をいっている。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、157頁

2020年5月26日(火)

フィリピ3章9節のなかの「キリストの内にいる者と認められるため」という言葉は、神さまによって私がキリストの内にいる者と認めていただくために、と理解されることも多いのかもしれません。原文の「エウレトー(エウリスコー)」の訳し方だと思いますが、この単語は「不定過去(アオリスト)・受動・接続法(私たちは接続法と習ったのですが、Jバイブルでは仮定法と記されています。subjunctiveのことです)・一人称単数」ということなので、その主語をだれに置くかということで違いが起こってくるということだと思います。「認められる」と訳すのだということですが、いったい誰に認められるのか、ということですね。

加藤先生が訳しすぎていると言いつつも紹介している口語訳では「キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」ということで、この場合自分自身が見出すというふうに理解されています。

自分が認めるのか、神さまが認めるのか。そもそもパウロはすでにキリストのうちにいることを確信しているのですから、神さまの目から見ると、高価で尊い存在であることは明らかでしょう。そのパウロが「認められる」と言っているのですから、神さまに認められるために、一所懸命自分を捨てる、などということはおかしなことになります。

それで口語訳のように、自分が認める、受動態と言いつつも、単なる受け身ではなく、不定過去(アオリスト)・接続法ということです。アオリスト(相)とは「動作が既に始められたり、既に片づいたものとして語られる状態をさす」ということですから、既に自分は神さまのものとして(完全に)認められているのですが、その認められているということを、自分自身が学んでいく、経験していく、といった感じではないかな、と思ったりしました。

自分をささげるということは、既に神さまのものとされている自分を、自分自身が認知していくことである、ということでしょうか。

そうすると神さまを信じてはいるけれども、自分をささげるということを一切しないならば、神さまの御手の中にある恵みを知ることができない、ということでしょう。ここに偶像礼拝とまことの神さまへの礼拝との決定的な違いがあるように思います。

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリピ3・8、9)