この話は、何時間働こうが報酬は同じであるという話ではない。自分のもの、自分の恵みを与える神の自由を語っておられる。だからこそ、最後にようやく恩恵にあずかっている私たちも約束された恩恵にあずかったのではないか。妬みはそれを忘れさせるのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、161頁
2020年5月30日(土)
ねたみ、嫉妬とは「自分よりすぐれた者をねたむ」「自分の愛する者の愛情が他に向くのをうらみ憎むこと」と広辞苑にありました。この「ぶどう園の労働者のたとえ話」では、一日働いた者と終わりに少しだけ働いた者との労働報酬が同じであったということから、一日働いた者が不平を言うというものです。これを読んで、不公平な話だと思う人は、自分を一日働いた者として読んでいます。逆に何と恵みに富んだお話しだと思う人は、自分を終わりに少しだけ働いた者として読んでいます。このたとえ話は、読んだ人の印象によって、その人の心を知ることのできるたとえ話ですね。
キリスト者はどこまでも、自分は最後にようやく恩恵にあずかった者である、という心を忘れてはいけない、ということでしょう。神さまの恵みは、私たちの労働への報酬ではなく、一方的なものなのですから。
「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」(マタイ20・15)