別れを惜しんだ主の日の午後、黄色い色ガラスを通して午後の陽が流れ込んでいる暖房も消えた礼拝堂で、数人の教会の仲間の日本人に囲まれ、金君が別れの歌を歌った。・・・新しい道も十字架の道と思っていたのであろう。・・・「自分を捨て、自分の十字架を追って、わたしに従いなさい」(マタイによる福音書第16章24節)と言われた主が必ず彼に先立っていてくださると信じながら。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、148頁
2020年5月17日(日)
自分を本当に大切にするためには、自分自身を神さまの御手の中にゆだねなければなりません。あやふやでいい加減な自分が自分を管理していては、いつの間にか滅びの道に迷い出てしまうからです。そうして自分を捨てて、つまり神さまの御手の中にゆだねてこそ、自分のいのちを救うことができるのです。自分を捨てるということは、十字架の道を歩む、十字架を背負って歩むということです。
ということは、自分をゆだねることと、十字架を背負うことは、一つのことであると思えてきます。自分をゆだねることなくして十字架を背負うことはできない、あるいは十字架を背負うことなくして、自分をゆだねることはできない、ということでしょう。本当に十字架を追っている人は、自分をゆだねている人です。自分をゆだねている人は、かならず十字架を背負っています。
「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』」(マタイ16・24-25)