自分が罪人の首(かしら)であるということ

自分には明確なふたつの自覚がある。第一は自分が罪人の首(かしら)であるということ、第二は、自分は日本国の柱であり、「私を倒す者は日本国を倒すという自覚である」。「この自覚を私に教えてくれたものは聖書であり、聖書を私に教えてくれた人は私の善き師であった。諸君の若き日を空しく過すことなく、善き師に就きて永遠の真理を学ばれよ。之は諸君の人生を意義ある生涯たらしむる為に、最も必要なことである」。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、149頁

2020年5月18日(月)

これは矢内原忠雄、個人伝道誌「嘉信」第55号に掲載されている「私の人生観」からということです。

罪人のかしらであるとの自覚。これがなかなか分からないのです。罪人といわれるなら確かに罪人かもしれませんが、かしらではないと、心のどこかで思っているのです。自分も罪びとだけれども、誰かをみてあれよりもましだ、と思っているのです。

いま礼拝では創世記を学んでいますが、アダムとエバの罪を犯すところを学ぶと、この二人が罪を犯したばっかりに、いま世界や私はとんでもないことになっている、この二人が悪いんだ、という声を聴きます。かりにアダムをエバが罪を犯さずにエデンの園に住み続けることができたとして、その子のカインをアベルは罪を犯さずに済んだでしょうか。あるいはアダムから私までのすべての人が罪を犯さずにエデンの園に住み続けることができたとして、私は罪を犯さずに済んだでしょうか。私は実はその自信がありません。おそらく人類最初の罪人になったであろうと想像します。そうであれば、アダムとエバは私たちの罪を代表していてくれるだけであって、私の中にアダムをエバを責めるものはなにもない、ということです。

であるにもかかわらず、アダムとエバが罪を犯したのだ、と主張するとすれば、それは自分が罪人のかしらであるということが分かっていないだけであるということでしょう。自分が罪人のかしらであるという自覚のないところに、残念ながら幸福な人生はむずかしいのではないでしょうか。

「正しい人でも、正しさから離れて不正を行うなら、その不正のゆえに彼は死ぬ。」(エゼキエル書33・18)