振り返る主のまなざしに赦され、引き上げられて

主イエスは弟子を集められた。「わたしについて来なさい」と呼ばれた。呼ばれた者たちは主イエスに従った。先立つ主イエスのあとを追う。主イエスの弟子になった者は実際に主イエスの背中を見つめて歩いた。その背を信じて歩いた。躓きながらも、振り返る主のまなざしに赦され、引き上げられて歩いた。・・・あなたにも今主イエスの背中が見えているであろうか。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、133頁

2020年5月2日(土)

弟子というのは、自分を召してくださった方の後を歩いていく者ということです。自分を召してくださった方の前に躍り出て独創的な自己を実現するということは、もはや弟子ではありません。

主イエスさまのあとをひたすら追って行くこと。その背中を見つめ続けること。

神学校の時に、ある先生がキリスト者の画家が描いたキリストの姿の背中のやさしさを語ってくださったことがありました。キリストを描いた作品の多くは正面か側面が多いような気がしますが、後ろ姿こそ大切なテーマなのかもしれません。

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4・18-20)