底辺を見る愛のまなざし

神学生たちの修養会に招かれ、学生の教会生活において、教会の底辺に立ち続けることを学ぶようにと勧めた。・・・底辺は自分で見つけるものである。あるいは、今生きる教会のどこに主がいてくださるかを問うてもよい。底辺は立つところであるより、うずくまり、ひざまずくところである。・・・主は弟子たちの足を洗う僕(しもべ)になられた。食卓についている主人や客人ではなく、その食卓に仕え、客の足を洗う僕たちの方が、食卓が作られるために、今何が大切かを知っている。・・・底辺が見えないのは、愛がないからである。神の家族である教会に生きる者にはひとしくこの底辺を見る愛のまなざしが与えられているはずである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、134頁

2020年5月3日(日)

教会に集う人びとの中でもっとも貧しい人と同じ生活をするように、と神学校の時に学ばせられたことがありました。実際には難しいにせよ、教会で語られる福音の本質を語っているところがあります。これはたんに謙遜的な態度を教えているのではなく、福音が力のあるところから力のないところに語られる教えではなく、力のないところから力のあるところに向かって語られる教えである、ということでしょう。

この世は、豊かな知識や経験のある者がそうでない者に向かって教えます。助ける力を持っている者が、そうでない者に向かって助けの手を差し伸べます。しかし福音はその逆なのです。そうでなければ愛が成り立たないということなのでしょう。

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ13・1)

「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13・1-15)