ひとは私たちの生き方を見て、神が誰であるかを知る

私たちは神に愛されている神の子であるのだから、子が父に似るのは当然ではないか。父に似て生まれて、自分の父が誰であるかを隠しようもなく明らかにしている息子のように、私たちは、キリストにおいて父の愛を示してくださり、その愛によって私たちを新しく生まれさせてくださった、父である神に似る。ひとは私たちの生き方を見て、神が誰であるかを知る。神が赦してくださったように、私たちも赦し合う。キリストがご自身を愛の故の供えものとしてくださったように、私たちも自分を神に献げる。そこに私たちの愛の歩みが生まれる。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、132頁

2020年5月1日(金)

キリスト教会で、伝統的に考えられてきたこととして、神が人となってくださったのは、人が神になるためである、と言われます。この人が神になる、ということですが、誤解しやすい言葉で、いわゆる絶対者になるとか神憑(かみがか)りになるというのではなく、本来神さまが造ってくださった真の人間として生きるということです。

具体的には、神さまは愛の神さまなので、私たちも愛に生きるようになる、神さまは赦しの神さまなので、私たちも赦しに生きるようになる、ということです。私たちの隣人が、私たちを見て、ああ神さまってこんな方なんだ、神さまっておられるんだ、わたしも神さまを信じようと、導かれていくような、歩み、生き方が私のの中に生まれていくということです。

「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」(エフェソ4・32-5・2)