トマスの双子の兄弟、それは私たちではないか

ディディモとトマスは呼ばれた。これは、ふたごという意味である。・・・トマスの双子の兄弟、それは私たちではないか。・・・自分たちも不確かな信仰しかないかもしれないが、トマスほどひどくはないと思っている。しかし、ほんとうは私たちはトマスそっくりではないか。トマスは疑った。しかし、主イエスに会いたがった。私たちも主イエスに会いたい。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、127頁

2020年4月28日(火)

ディディモと呼ばれるトマス、ということですから、普段はディディモと皆から呼ばれていたということです。トマスと呼ばれるのは、おそらく何か特別な時だけだったのでしょう。

このディディモという言葉が双子という意味であるということ。辞書にはアラム語由来の言葉を同様の響きを持つギリシア語名で再現したものである、とありました。

私は、聖書をいわゆる「科学的(?)」に読むのではなく、文学的、あるいは霊的(この言葉は独り歩きしやすいのであまり使うべきではないと感じています)に読むことに大切な意味があると信じているものです。私たちは双子であるトマスの、もう一人のトマスである、との信仰は大切なことだと思います。信仰生活における疑いは他人(ひと)ごとではないということですね。

「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』・・・ イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネ20・24-29)