これは死が産みの苦しみをもって生み出さざるを得なかった。別の言葉で言うと、死が吐き出さざるを得なかったということである。産みの苦しみを伴って、というのである。・・・死は片っ端から死人を呑み込む。しかし、主イエスだけは死ののどを通らないのである。あるいは、なるほど一度は呑み込みはしたが、胸がむかついて吐き出してしまう。あるいは死は死人をその牢獄に閉じ込める。しかし、ナザレのイエスが死なれ、その獄屋に入られたのち、またさっさと出て行かれた。新しいいのちとなって出ていかれた。それを阻止する力はなかった。図らずも、死そのものが新しいいのちの生まれたところ、産みの親にされてしまった。死の毒気が抜かれてしまったというのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、128頁
2020年4月29日(水)
主イエスさまは「死者の中から最初に生まれた方」です。原文では「死者の最初の息子」という意味だそうです。
死はどこか絶対者のように受け取られてしまっているのだと思います。極度の苦しみから逃れたいがために死を選ぶということが人間にはあります。それは死というものが、目の前の苦しみから自分を解きはなってくれる力を持っていると信じていることでしょう。苦しみを解決する絶対者のようにとらえているということでしょう。しかしイエスさまが復活されたということは、この死が絶対者でなくなったということです。あるいは死が絶対者ではないということを明らかにしてくださったということです。さまざまな意味合いにおいて死が絶対者でなくなったということを信じているのが、主の復活を信じるキリスト者の信仰です。ですから私たちはどのような状況にあっても神さまが生かしてくださるならば生きる道を選択し、また模索していくのです。
「ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。今おられ、昔おられ、やがて来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、また、確かな証人、死者の中から最初に生まれた方、地の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように。/私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、」(黙示録1・4-5)