主イエスが戸口に立って、戸が開かれるのを待っておられる。なぜご自身で入ってこられないのか。甦られた直後、弟子たちが戸を閉ざしていても、ご自身で入ってこられたではないか。・・・私を愛をもって迎えなさい、一緒に食事をしよう、早く戸を開いてくれないか。主はそう言って戸を叩き続けておられる。私たちにも、戸を叩く音が聞こえないであろうか。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、97頁
2020年3月30日(月)
神さまを信じるということは、神さまを愛するということです。愛するということであれば、そこには自由があるはずです。つまり愛さなくてもよいという自由が保障されているとことにおいて、それでも愛するという選択をすることに、愛そのものの価値があるのです。もし愛さなければならない、それ以外の選択の自由がないというところで、愛したとしてもそれには価値がありません。あるいはそれはもはや愛とは呼べないものでしょう。
イエスさまは私たちが私たちの心の扉を開くのを待っておられます。戸を叩きながら待っておられます。心の扉を開きたいと思います。
「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙示録3・17-20)