キリストの死も復活も「聖書に書いてあるとおり」のことであったと二度も繰り返す。これはのちの教会の信仰告白文書にもみられる表現である。聖書が「必ずこうなる」と告げているとおりにキリストがなさっている。この必然を定めたのは運命ではない。父である神のご意志である。この「神の必然」を「愛の必然」と呼ぶこともできる。主イエスがゲツセマネで血を流すように祈られたのは、この必然に従うためであった。ここに見えてきている神の断固たる意志を信じること、それに身をゆだねること、それは、この主イエスの服従の故にこそ、私たちにも可能となる。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、98頁
2020年3月31日(火)
旧約聖書に記されていたことが成就するということ。新約聖書にしるされていることは旧約聖書の成就である、ということでしょう。イエスさまがこの地に来られたこと、そして十字架と復活は、永遠の神さまのご計画であったということでしょう。行き当たりばったりのこと、ましや失敗などということではまったくありません。もし万が一十字架にかかることにならなかったとしたら、それこそ失敗ということでしょう。
この「愛の必然」は、自動的に、何の努力もなしに成し遂げられたことではありませんでした。主イエスさまの断固たる意志があったということでしょう。
私たちもこの主イエスさまの断固たる意志によって、主イエスさまを信じ、主イエスさまに身をゆだねることが可能となるのです。信仰に生きるとは、自分の断固たる意志が土台ではなく、イエスさまの断固たる意志が土台なのです。
「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ26・54)
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」(第1コリント15・3,4)