恵みの事実を受け入れそこなう物分かりの悪さ

十字架によって生かされない。なぜ、そうなるのか。自分が律法に生きていることを無駄にしてほしくないからである。自分の功績を数えてもらいたいからである。他人の功績を論じて論評したいからである。このような律法主義は今日も生きている。この誘惑は強い。福音を聴いて信じただけで、既に義とされ、自由であるという恵みの事実を受け入れそこなう物分かりの悪さに気づいていたい。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、96頁

2020年3月29日(日)

律法主義とは「自分が律法に生きていることを無駄にしてほしくない」「自分の功績を数えてもらいたい」「他人の功績を論じて論評したい」という願いであり、生き方である、といいます。自分の力で何かをなしたということを誇りにしたい、そういう自分の功績をたたえてほしい、無視しないでほしい、さらに他人が成し遂げたことを論評、批評、批判したい、見下げたい、と。それが十字架を無視することであるというのです。

そうすると十字架によって生かされるということは、

  1. 自分が律法に生きていること考えに入れない。

  2. 自分の功績を数えない。

  3. 他人の功績を喜ぶ。

このようなことになるでしょうか。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」(ガラテヤ3・1,2)