ルター派教会は律法・使徒信条・主の祈りという順序で教理を学び、改革派教会は使徒信条・十戒・主の祈りという順序になると言われる。十戒で代表される律法が罪を教え、悔い改めに導くためのものか、それとも罪赦されて聖化の道に生きる指標と理解するかの違いが反映するからだと説明される。しかし、あまり形式的に考えない方がよい。・・・ローマの信徒への手紙もまた、律法は罪を教えるものであると共に、キリストの愛に生かされ、自分も愛に生きようとするキリスト者の生活において全うされるものであると教えている。神の義に生きる道を教える律法として当然のことである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、83頁
2020年3月16日(月)
罪というと誰かに対して犯している罪を思います。またそれだけではなく神さまに対して犯している罪を思います。神さまを知らなければ人に対する罪だけを考えることになりますが、神さまを信じると神さまに対する罪を考えることになります。
聖書の語る罪の赦しは、神さまに対する罪の赦しを語っています。たしかに人に対する罪も重大なことですが、罪に対する真実のさばきをすることのできる存在は、神さまだけですから、その神さまに赦されるということこそ、私たちに解放を与えるのだと思います。
ただ、この罪の赦しということだけが強調されて「律法の役割は、赦しに向かうための養育係である」「イエスさまを信じて罪赦されたならば、もはや律法に何の意味もないのだ」とされるならば、それは聖書の語る信仰ではない、また福音に生きることではない、救われて生きることではない、と言わざるを得ません。
つまり律法には二つの役割があるということでしょう。
「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7・7)
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(ローマ12・8)