好きなだけ食べさせてくれる王を求める。逃れる主イエスを必死になって追いかける。主はこの王待望を斥けられ殺された。民主主義になっても私たちが求める権力者も同じではないか。この求めを満たす者が王となる。ヒットラー批判が当然のドイツを訪ね、民衆と語ると、1933年、ハーケンクロイツの旗が全土に翻るや、たちまちインフレが収まり、失業者が減り、高速道路が出来、軍備が整い、国際的劣等感が拭われた興奮の日々を懐かしむ声を聞いた。主はこの興奮を斥けられた。福音書の記述の平静さは、この主の平静さを反映しているのではないか。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、27頁
2020年1月22日(水)
日本人として日本の文化のすばらしさを強調したい、誇りを見失いたくない、という気持ちは大切なことだと思います。しかしその気持ちが帝国主義的な国家に利用されてきた歴史を振り返ると複雑な気持ちになります。
こんにち民主主義の中にあっては、そのような国家を愛する気持ちが権力者に利用されることはないとも思えるのですが、しかし実際はそうでもないということでしょう。むしろ民主主義の中にあって民衆こそそのような国家権力を求めているところがあるというのが歴史の真実なのかもしれません。それを民主主義というのではなく大衆主義であるというのかもしれません。
それにしても自分の国に対する誇りを正しく持つということは案外難しいこと、学ばなばなければならないことではないか、と思います。テレビなどで日本はいかにすばらしいかという番組がここ数年多いような気がしますが、そのような番組を見て心に喜びを感じることは決して悪いことではないのだと思うのですが、その喜びが語られるところで、他の国に対する蔑視、差別的な発言も同時に語られることの多いのを感じます。それは、その人自身の内に培われてきた劣等感、コンプレックスが言わせているような気がしてならないのですが。劣等感が愛国心を支えているなどというのは、まったくもって健康的ではなく、結局破壊的になっていくのではないかと思います。
イエスさまは私たちが私たちの願う王にしようとすることを斥けられました。しずかに、ひとりで山に退かれました。私の願望を満たす王ではなく、時に私という罪びとをしかってくださるイエスさま。私はこのしずかに退くイエスさまこそ、私のまことの王であることを感謝したいと思います。
「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(ヨハネ6・14,15)