私たちそれぞれのまえにある問いは、「キリスト教を信じないでも、人によってはまともな生活を送ることができるのではないでしょうか?」ではなく、「キリスト教を信じないでも、この私はまともな生活が送れるでしょうか?」なのです。
・・・
神が、臆病や怠慢のゆえに彼を罰したもうかどうか、そんなことを詮索する必要はありません。そういう人は自分で自分を罰することになるでしょう。責任を回避しているのですから。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、463-465頁
2019年11月26日(火)
自分という存在はかけがえのない唯一の存在であり、自分の人生は一回限りの貴重なものである、と聖書は語るのだと思います。その自分の人生を、自分自身を生きるにあたり、切実に道を求めていくことは当然のことだと思うのです。そしてそこに自分なりの責任を果たしていく道がひらかれるのだと思います。にもかかわらず、一般論ばかりを論じたくなるのは、結局のところ人生の責任を回避しているということなのでしょう。
「ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。』」(ヨハネ21・21-22)