実在が私たち人間の機能で捉えられるようなものでないことは確かです。けれども、少なくともまずい類比、まずい譬えを斥けるように努力することはできるはずです。祈りは機械仕掛けではありません。魔法でもありません。神に対する忠告でもないのです。
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祈りを聞き届けられた人々について、王様のお気に入りのように――国王に対して影響をおよぼしうる有力者のように――考えるのは、さらにいっそうとんでもないことです。キリストのゲツセマネにおける祈りを神が拒まれたことを考えてみれば、それはわかるでしょう。
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では神は、神に最もよく仕えるものをこそ、お見捨てになるのでしょうか? そう、誰にもまして最も神によく仕えたイエスは、苦しい死の間際に「なぜ、私をお見捨てになるのですか?」と問われました。人となられた神であるイエスが神を最も必要となさっていたとき、彼はすべての人のうち、神の慰めから最も遠かったのです。ここには深遠な神秘があります。・・・あなたや私のような小さい者の祈りが私たちのすべての願いを、またすべての蓋然性を超えてときに聞かれるとしても、自分に都合のよい結論を早急にそこから引出すことは禁物だと思います。私たちがもっと強かったら、このようにやさしく扱ってはいただけなかったかもしれないのです。私たちがもっと勇敢だったら、神の助けをこのように豊かに与えられることなしに、大いなる戦いにおける危険きわまる地点を死守すべく遣わされているでしょう。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、451-453頁
2019年11月18日(月)
祈りがきかれるのは、祈る者が強いからではなく、弱いからである、ということでしょうか。泣き声を上げるだけで、おむつを替えていただき、ミルクを与えられるのは、赤ちゃんです。しかし成長して自分でできるようになると、泣き声を上げたところで着替えをしてくれ、食べ物を食べさせてくれることはなくなります。いつまでも願望を実現するためだけの祈りにとどまるのではなく、神さまとの人格的な交わりの中に信仰生活を歩むことを、神さまはお望みになっておられるのです。
「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマ12・12)