人格以上のもの

「私は神の存在を信じていますが、人格的な神などというものは信じません」と言う人が、近ごろではたくさんいます。そういうことを言う人たちは、万物の背後にある神秘的な存在は人格以上のものであるに違いないと考えているのでしょう。

さてクリスチャンもその点、まったく同じように考えています。けれども人格以上のものとはいったいどういう存在かということに関して、何らかの答えを出しているのはクリスチャンだけです。
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人間の魂が神の生命のうちに取りこまれながら、しかもなおそれ自体でありつづけると、いえ、以前よりももっとそれらしくなりうると考えているのはクリスチャンだけです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、432-433頁

2019年11月5日(火)

人格神を信じるという信仰は、キリスト教の外にもあるのかもしれませんが、その人格神が人間でいうところの人格以上のものであると信じているのは、キリスト教信仰だけなのだ、ということでしょう。

人格神を信じるといことが、人間が神と一体となるということにおいて、私たちの人格が溶けてなくなっていまうということではない、ということを可能としているのだということでしょう。

「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(ヘブライ1・2)