神を知ることにかけては、主導権はあくまでも神の側にあるのです

彼が殺された後、人々はふたたび彼に会いました。そして彼を信ずる者の小さな団体と言うか、共同体を形成しましたが、その後彼らは、神がどういうわけか、彼らのうちにも住まわっていて下さるということに気づいたのです。神は彼らを導き、以前にはできなかったことができるようにして下さいました。このふしぎな出来事の真相をきわめたとき、彼らはキリスト教に固有な、三位一体の神という概念にたどりついたのでした・・・

神を知ることにかけては、主導権はあくまでも神の側にあるのです。神が御自身を知らせて下さらなかったなら、人間がどんなに努力しようとも、到底神を見出すことはできないでしょう。そして事実、神はある人たちに対しては、ほかの人々に対するよりずっと明らかに御自身をお示し下さっています。それは、神が依怙贔屓をなさるからではなく、精神や性格が神を受けいれるにふさわしくない状態にある人々に御自身を示すことは神にとって不可能だからです。太陽にしても依怙贔屓をすることはありませんが、汚れた鏡にはきれいな鏡の場合のようには日光がはっきりと反射されないでしょう。・・・

神は御自身のありのままの姿を、真の人間にしか、示すことができません。ということは、神は個人として善良な人々に御自身を明らかにされるというだけでなく、一つの体として互いに結ばれ、愛しあい、助けあい、互いに神を示しあう人々に御自身を示されるのです。人類がそのようになること―一つの楽団を構成する団員たちのように、あるいは一つの体のうちのさまざまな器官のようになることを、神は意図なさったのですから。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、433-434頁

2019年11月6日(水)

これは三位一体についての文章の中で書かれていることです。聖書の中に三位一体という言葉はありません。しかし一神教の神さまを信じるなかにあって、イエスさまがまことの神さまであり、そのお方が父なる神の右に居るといこと、そして信仰者の群れである教会の中にもおられるといこと、イエスさまが聖霊なるお方を遣わすといわれたこと、などから、この神さまは三位一体ということでしか言い表すことのできない存在である、というところにたどり着くことになったのです。神さまは単純な一神教の神として御自身を現されたのではなく、三位一体の神として御自身を現わされたのです。そうでなければ、愛の神としての表現が不可能だったのです。キリスト教会もイエスさまを希薄にして、まるで単純な一神教のように旧約聖書をいたずらに強調する時、愛が失われます。

ですからこの神さまがご自身を表わされるのは、「教会」という共同体の中にこそあらわされるのです。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13・34-35)

どんなに聖書的に見える教えがなされていたとしても、そこに互いに愛し合うということがないならば、神さまはそこには御自身を表わすことができません。聖書的であることとは、互いに愛し合うというフィルターをとおして聖書を読んでいくということでしょう。ですから互いに考え方も文化も主義主張も違うものがともにいて、互いに尊重しているといことが大切なのです。そしてそのこと自体が、この世では奇跡なのです。

「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ローマ12・3-5)