自然のままの人間がもっていないもの、それは霊的生命です。霊的生命とは、自然的生命とは異質の、神のうちにある高次の生命です。私たちはどちらについても同じ生命という言葉を使っていますが、この二つを同種のものと考えるのは、空間の広大さ(グレイトネス)と神の偉大さ(グレイトネス)を同質と考えるようなものです。実際にはこの二つの違いはたいへん重大ですから、私は二つをまったく違う名で呼ぼうと思います。
自然を通じて生ずる生物学的生命は、(自然のうちにあるすべてのものと同じく)時がたつとともに衰える傾向をもち、このため、空気、水、食物その他の形で自然からたえず補給を受けることによって、はじめて保持されます。この種の生命を、私はビオスと呼ぶことにします。
一方、永遠の昔から神のうちにあり、自然的全宇宙をつくった霊的生命を、私はゾーエーと呼ぼうと思います。
ビオスはたしかにゾーエーに対して、いわば影が形に対するような、象徴的な相似性をもっています。しかしそれは写真と現実の景色の間にあるような、彫像と生きた人間の間にあるような相似です。ビオスをもつ状態からゾーエーをもつ状態に変った人間は、石の彫像が生きている本物の人間に変ったのと同じくらい、画期的な変化を経験しているでしょう。
これこそまさに、キリスト教の中心問題です。この世界は偉大な彫刻家の仕事場、私たちは彫像です。けれどもいまこの仕事場に、私たちのうちにある者が他日、生命あるものになるという噂が伝わりはじめているのです。
『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、431-432頁
2019年11月4日(月)
まず、永遠のいのちとは神御自身であり、またイエスさまご自身です。そしてイエスさまを信じる者には、この永遠のいのちが与えられました。ここで人格である神ご自身が滅びに向かうしかなかった人間のうちに生きはじめて下さり、結果人間は永遠のいのちに生きるものとなりました。これがキリスト教信仰です。イエスさまを信じる者は、画期的な変化を経験しているのです。
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4・14)
「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6・8)