聖書が<神の子となる>というときには

ある意味では確かに、私たちはすでに神の子です。神が私たちを存在させ、私たちを愛し、見守っていて下さるのですから、その意味ではまさに、神は人間の父親にたとえられるでしょう。しかし聖書が<神の子となる>というときには、それとは違うことが意味されていることは明らかです。
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キリスト教の信条の一つには「キリストは神の子であり、つくられたのでなく、神によって生みだされた方である」と述べられており、さらに「彼はもろもろの世界に先だって父なる神によって生みだされた」と付け加えられています。
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生むといことは誰かの親になること、つくるとは何かをつくりだすことを意味します。つまり、私たちが何かを生むときには自分と同じ種類のものの親となるのです。
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一方、何かをつくるときには、自分と違う種類のものをつくるのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、429-431頁

2019年11月3日(日)

イエスさまは造られたものではなく生まれた方であると聖書は語ります。ルイスは生れたのだから、神さまと同じである、神さまであると語ります。それに対して私たちは神さまによって造られたものです。しかしその私たちを神さまによって生みだされたものである、と語ります。もちろん私たちはイエスさまと同じ神であるなどと言っているのではありません。ですから被造物でしかない私たちを神の子として下さるということは、たいへん畏れ多い奇跡であるということでしょう。

柳生訳では<生む>ということばは、<begetting,begotten、ビゲット>、<つくる>ということばは、<クリエイト>、と書かれていました。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1・13)

「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」(コロサイ1・15)