洗礼とか聖餐といった体の行為

クリスチャンが自分たちのうちにはキリストの生命があるといった言回しをするとき、それは単に精神的な、あるいは道徳的な意味で言っているのではありません。・・・それはキリストが実際に彼らを通じて働いていたもうということ、クリスチャンの全体はキリストがそのうちにあって働く有機体なのだということ、つまり私たちは彼の指であり、筋肉であり、細胞なのだということを意味しています。

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この新しい生命が信仰のように純粋に精神的な行為によってのみならず、洗礼とか聖餐といった体の行為によっても、ひろく伝えられます。それは単なる思想の伝播であるだけでなく、むしろ進化に、生物学的、超生物学的事実である進化に似ています。

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神は、人間について純粋に霊的な被造物であれと意図なさったのではありませんでした。それゆえ神は、パンや葡萄酒のような物質を用いて、私たちのうちに新しい生命を注がれたのです。

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神は食生活というものを創始なさいました。神は物質を好まれました。物質を発明なさったのも神御自身だったのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、422-423頁

2019年10月29日(火)

柳生訳では、「洗礼とか聖餐といった体の行為」は「洗礼とか聖餐式のような身体的行為」となっています。

キリスト教が精神的な宗教であるだけではなく、身体的な宗教であるということ。これは神学校に行ってより深く学んだことでした。「純粋に霊的な被造物であれ」と考えたのは、初代教会の時期に教会をとりまいていた異端であるグノーシスのほうでしょう。

私たちは、信仰においての「体の行為」「身体的行為」を大切にします。

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(第1コリント11・26)