神は、他日彼らが見出さねばならない欠乏についてあらかじめ警告して、彼らを不安にさせたもうのです

私たちは善良な、感じのよい、尊敬に値する人々に不幸がふりかかるのをみて、ふしぎに思います。・・・ほんの一瞬で結構ですから、想像してみて下さい。そのような尊敬すべき人々を創造された神が、彼らのささやかな繁栄と子孫の幸福だけでは彼らを祝福された存在とするには足りないと考えておられるのはまったく正しいことなのかもしれないと。さらに、幸福や繁栄は結局は必然的に失われるもので、神を知るようにならなければ彼らはまったくみじめな存在のだと。

それゆえ神は、他日彼らが見出さねばならない欠乏についてあらかじめ警告して、彼らを不安にさせたもうのです。安定した生活こそ、彼らが、またその家族が真の欠乏を認識することを妨げているものなのですから。

神は彼らの生活をわざと苦いものになさいます。私はこれを神の謙遜と呼びます。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、377-378頁

2019年9月27日(金)

自己中心から解放され、神さまのもとに帰り、神さまを中心として生きるところに、人間の真の幸福があります。しかし人間は、この世の偽りの幸福の中にある時は、真実に神さまのもとに来ることをしないのです。ですから神さまは時折人間に苦しみがやってくることをお許しになるのだ、とルイスは語ります。この考え方は、実際に苦しみの中にある方には、受け入れがたいことではないかと想像します。しかしルイスは受け入れがたいことであることを十分に承知の上であえてそのように語ります。そうして、もうどこにも行くところがなく、自分を放棄するしかなくなって、なかば仕方なしに神さまのもとに帰ってくる人たちを、ご自身の子として受け入れてくださるのです。そこに神さまの謙遜がある、とルイスは語ります。

とにかく、どのようなかたちであっても人間が神さまのもとに帰ってくることを、この聖書の神さまは望んでおられるのでしょう。

人間はいつの日が必ず死を迎えます。その備えをするのが人生なのだと思います。しかし人間は、その死を、まるでないかのように日々を過ごしてしまいます。ときに日々の幸福はその死を忘れさせます。それではいざ死を目の前にしたときに、人間は絶望するしかないでしょう。だからこそ神さまは、日々の苦しみを通して、その最終的な問題を見失わないようにして下さっているのだ、ということでしょう。

「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」(詩編119・71、新共同訳)

「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。/それにより私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119・71。新改訳)